今日は普通

 今日は平日。でもGWがらみのせいか、電車が心なしか空いている。

 先日ここでも紹介した、橘玲(たちばなあきら、と読むらしい)の小説を読んだ。その名も「マネーロンダリング」。「お金持ちになれる黄金の羽の拾い方」の方は、授業を受けているようにとうとうと語り口調で書いてあったが、今回は小説ということもあって、登場人物が具体的に大金を動かしていく。こんな方法が!というのを実演してくれているので、「お金持ちに−」よりもイメージができやすく、わかりやすかった。スリル・サスペンス・ラブシーン、三拍子揃ったいい本だった。先週の土曜日に買ったのに、あっというまに読み終えてしまった。
 文庫本で出ていますから、興味がある人は是非ご一読下さい。

 今日の非常勤。授業の感想を書かせたら、半分が「面白い」、半分が「難しい」。まぁいい割合じゃないかな、と思う。実質は7:3ぐらいで面白くはないんだろうけど。

 しかし、最近考えているのだが、言葉が作る現実、というのを何とかしたい。
 一番よい例は「しんどい」「疲れた」である。これを言ってしまうと、大概何にでも当てはまる。妙に基本的人権の知識だけは広まっているから、「しんどいんです」と言えばそれ以上追求できない。しかし、自分で自分に限界をかけてしまっているように思えるのだ。
 いつだったか、友人が仕事で頼まれごとがあっても、絶対に「出来ません」とは言わない、と言っていた。もちろん自分の能力にも限界があるのは知っているが、極力それを言わずに、頼まれたことは出来るように、自分で本を読んだり、時間をかけたりしてなんとか達成してしまうのだそうだ。それが仕事というモノだ、と聞かされたときは「なるほど。いい哲学だ」と思った。
 それと同じことが学生にもいえる。「難しい」「わからない」と言ってしまえば、教師が教えてくれると思っているのだ。しかし10年近くも大学生をしたベテラン(?)から言わせてもらえば、本当に面白いこと、知的好奇心をくすぐられるモノというのは、一見したときなんのことかわからんもんである。さっぱりわからんもんである。全然わからないことでも、何ヶ月、何年もかけて外堀を埋め、やっとこさわかったような気になっていく。それが学問というモンである。
 「わからん」と「難しい」は学問に対するgive upであって、要するに「考える意志はないです」「理解しようと思いません」ということですからね。授業でわからないこと、難しいことがあったら自分で調べなさい。

 別に教育することを放棄しているのではない。教わる側が、学ぶ権利を放棄するのをくい止めたいだけだ。