愛のない自己責任

対象は色々変わるけど,オリエンテーションの内容は大きく変わらないわけです。で,その中で何度も出てきてイラっとするのが「自己責任です」という言葉。

保護者に対して「大学では,自己責任です」。
学生に対して「大学では,掲示板を見ていませんでした,という言い訳はできず,自己責任になります」。

うーん。「自己」って要るか?
自分のことは自分でしてください,というのを自己責任というのだろうけど,その言葉を他人に言われるのがわからないのだ。
私が何か失敗して,「いえ,これは自己責任ですから」というのであれば(言わないけど),納得いく。
でも,他人に「それはお前の自己責任だろう」と言われると違和感を覚えるのだ。あなた自身の責任ですよ,というのを他人であるお前が言うな,と思うわけです。

ことわざを使って「そりゃおまえ,身から出た錆ってもんよ」と言えば良いのに。

保護者に対して,「大学では自己責任です」というのは(書いててもイラッとする!),「大学では学生個人を管理するわけではないですよ。なぜなら,履修一つとっても,それぞれ履修の仕方,単位の取り方が自由になっているので,100人を超えるパターンを把握しきれないからです」ということを伝えたいんだろう。なんでハッキリそう言わないんだろ。しかも,それを改めて言う必要があるのか?

親が「説明を聞いてないぞ!」とか「なんでうちの子は単位が取れないの?」と聞いてきたら,「説明する責任はこちらにありません」「単位を保証できません」と答えるだけで良いじゃないか。いや,前段が「説明責任を果たしていない!」とさらに糾弾されるのであれば,今回みたいに「ほら説明したぞ!聞いてないそっちが悪いっていうたぞ!」ということになるじゃない。つまり,アリバイ作りとしての説明会。でも,アリバイが出来たからって,問題は何も解決してないんですよw 喧嘩になるだけじゃない。

ハラスメント防止研修DVDの視聴もそうですよ。
毎年,ハラスメント対策としてDVDを30分見せるんだけど(今日3回見た!),学生はじっくりしっかり見ているかというと,そうでもないんだよね。だらだら見ているとか,その間に書類書いてたりとか,寝てたりとか,だらだらしている。
見せている俺らも,何度も見ているから面白くなくて,苦痛の時間を過ごしている。
もちろん,今回はDVDの内容がちょっとお粗末だったというのもある(明らかに話の前後で矛盾することを言ったり,取り上げる事例が特殊例すぎる)。
でも,「そもそも」だ。見せる方も,見る方もイヤーな感じで,みんなが30分の時間を無為に過ごしているわけですよ。みんな我慢している。これって明らかに,社会システムとして間違ってるよね。
その根本は,「みせたぞ!するなよ!されるなよ!」みたいな,上のアリバイ作りなわけです。
例えばハラスメント被害にあった人がいたとする。その人が「事前にこういうのは危ないって教えておいてもらったら,こんなことにならなかった!」というのはオカシイんです。たらればの話をしても,現に被害にあった傷が消えるわけではないじゃない。被害者が訴える,なので,全体が「事前に教えたのに聞いてなかったお前が悪い(=自己責任!)」という。そしてそのための苦行。

これのどこに,愛がありますか。

実際の被害を補填してもらったら溜飲が下がる,というのは,過度の資本主義精神(何でも比率尺度水準,お金で等価交換できる)と歪んだルサンチマン(社会システムにたいする恨み)だと思うのです。

本当に愛のある対応をしようとしたら,被害者には優しく接しつつ,歪んだ恨み節は間違っていると教えてあげる。犯罪者には厳しく接し,しかし同時に「罪を憎んで人を憎まず」の精神で。

自己責任だ,という言葉には,愛がなさすぎるのです。

追伸)もう一つ,メトリシャンとしてイラっとさせられつづけたのが,就職支援部が作った進学先割合を示す3D円グラフ。ご丁寧に,かなり押し倒して作っていて,みんな教員になったみたいに見える!サイテー!