Steve Jobsの訃報と生き様について思うこと

昨日の朝、Steve Jobsの訃報がTwitterのTL上で流れてきて、驚いた。出勤してさぁ仕事を始めるか!というタイミングで、一瞬何が何やら、という感じだった。
もっとも、彼はこのところずっと闘病していたようだし、そのこともあって仕事を退いたばかりだったから、頭では理解できるのだけれども。
折しもiPhone4Sのプレゼンが終わって、えー5じゃないの、という声が流れていたときだったし、自分もどうしようかな、機種変しようかな、とか、とりあえずiOSをアップグレードしてからだなとか、やっぱりMBAはいいなあとか、いろいろAppleな日々を送っていた頃の訃報。

残念だし、悲しいね。

何が悲しいか、というと、やはりユーザーとしては、もう彼によって驚かされることがなくなったのか、ということが悲しいわけです。
驚かされるというのは、自分の中にそのアイディアがなかったから生じるわけです。
自分の世界というのは、他人の思考をトレースしたり、社会の流れをトレースしたりすることもあるし、現状の情報から未来予測=シミュレーションすることもある。だいたいどんな人でも、自分の世界の9割は予測できる範囲内にあるはず(子どもでない限り。そうでなかったらきっと精神が崩壊してしまうから。)
なのに、彼はそれらひっくるめた「世界」の外を見せてくれる。そして、そっちの方が、悔しいけれど、自分で思っていることよりも面白そうで美しくて幸せになれそうに思える。なんで俺は思いつかなかったんだ、と思わされるね。
そういうサプライズが今後なくなるのかとおもうと、非常に悲しいわけです。

ぎりぎりまで仕事をしていた、ということから、やはり仕事が激務だったんじゃないかとか、仕事の虫だったとか言われることもあるようで。たしかに享年56歳というのは早く感じるけれども、引き際としてはとても美しかった。きちんと成果を残した後で、後継者に道を譲って,引退してすぐ死ぬ。これは俺の理想でもある。尊敬する先生は、引き際が美しかったから。
逆に、いつまでも後継者に道を譲らず、ズルズル居続けるのは醜いなぁと思うのです。日本人のほとんどがそうだけどね。政治家なんかそれの固まりで、あいつら平均年齢いくつなんだ、その歳で将来のことを考えるなんて恥ずかしくないのか、と思うね。
昨日ちょうど日本では小沢一郎の初公判があって、「なんで俺だけ検察に目を付けられるんだ」とか「民主主義の崩壊だ」とかぐずっているけど(それらは一応筋が通っているとしても)、必死で現職にしがみつきながら何の成果も残してない(のに大物)がテレビをにぎわすのが、非常に不愉快な訳です。
ある程度「あ、俺嫌われてるな、もうええか」って思えよな。

話を元に戻す。
Jobsによって驚かされることはなくなっただろうけれども、Appleには今後もがんばってもらって、Appleは世界や俺の世界を驚かせる企業であり続けてほしい、と思う。いいものを作れなくなったら、信者は離れていくだろうし、俺みたいに宗教心でなくその製品の価値に惚れている人は、その価値がなくなったら当然信者より素早くはなれていくだろう。でも逆に、いいものを作り続けていれば、もっともっと世界は広がっていくと思うし、そうである限り支持するつもりだ。

とりあえず、iPhone for Steve(4S)は非常にセンチメンタルな理由で、購入しようと思うけど。

一足先にiCloudにいってしまったJobsに、ありがとうと言いたい。