高学歴ワーキングプア〜「フリーター生産工場」としての大学院

トークニズム、という言葉をご存知だろうか。tokenism。辞書には「名ばかりの差別撤廃主義者のこと」、とある。
私は、それにはならないでおこう、と常に思っているという前提を書いた上で、読書案内を始めよう。

高学歴ワーキングプア  「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)」を読んだ。こういう本が出た、という情報を得てすぐにAmazonで注文し、届いて二日間で読み終わった。

なぜか?
興味があったから。自分がごく間近で見てきた問題だから。

「見てきた」と、過去形で語れるものであり、決してそうは言えないものなのだけど。

本書の要約を少し。

大学院重点化が言われるようになって、少子化で子供の数は減っているのに、大学院生の数は増え続けている。
しかし、学位を取っても大学に就職できる割合は50%だ、という話。残りの50%はどうなるか。フリーターに、バイト講師に、行方不明になっていくのだ。

お上が重点化すると言っても、就職先(ここでは大学教職のこと)が増えるわけではないので、当然倍率は激しくなってくる。悲しいのは、「重点化」故に大学院進学を勧められ、進学したらその後は「自己責任で」と言われ、行き場を無くす人たち。これがかなりの数に上る。

実際今まで、周りで就職したくてもできない人、非常勤の掛け持ちだけで生計を立てている人、諦めようとした人、諦めた人、等々いっぱい見てきた。だからすごくよくわかる話だ。

普通は、自己責任だという。この本は、そういう構造を作ったヤツが悪い、という。

私は、五分五分だと思っている。

私が大学院に進学したとき、既にこのような状況は薄々わかっていた。大学の教員になるのは、かなりハードルが高い事は。
自分が進学するときに考えたのは、今後の人生がどうなるかという確率、いわば「リスク認知」だ(笑)
私はそれを、吉本に入って売れる芸人になる確率と同じぐらいだ、と見積もった。

吉本のピラミッドは裾が広い。上の方は華々しく、下の方はアルバイトをしながら業界にしがみつく。もちろんドロップアウトする可能性も高い。アルバイトをしながらでも粘っていれば、別の輝きを出してくる可能性もある(芸歴20年で永遠の若手と呼ばれるような)。たぶん、大学院→大学教員ってそういう世界だ、とふんだ。

お笑いと同じで、自分の所属しているプロダクション(吉本、松竹にはじまって、個人事務所に至るまで)のレベルによって、回ってくる可能性のある仕事が違う。自分の所属したところは、吉本興業(旧帝大)ではなかったが、看板芸人を数名抱える程度の大学・大学院ではあろうと思われた。

次は自分の芸=専門。あまりイロモノをやりすぎても理解されない。王道をやってもいいけど、目立たない。ただ、この芸だけはあいつじゃないとできないと言われる、あるいは、この芸ならあいつに安心して任せられる、そういう存在にならねばならない。そういう意味で、一番手っ取り早かったのは、みんなが忌避する統計学だった。統計の専門家や、経済、工学などのジャンルに行けば当たり前のことでも、社会心理学という世界で数学モデルをやる、というのは、ちょうどいいぐらいの目立ち方だろうと思った。

後は芸を重ねるばかりである。師匠につき、師匠の芸を盗み、先輩の芸を盗み、自分の芸を磨く。友だちはできたけど、最終的に奪い合うポストは限られているので、基本的に全員敵であると見なす。そういうつもりでやってきた。

例えば妻と交際をするときも、若手芸人とつきあっている、というぐらいの感覚でいてもらえればと思った。今は稼げないけど、いずれ売れたら生活はできるようになろう。売れる確率は高いか?低いか?それはそちらで見積もって下さい、としか言いようがないか。

ただ、自分は一緒になってくれる人がいようといまいと、この業界にへばりつくつもりだった。リットン調査団のようになっても(実名を出してしまいました、失礼(笑))、この業界にいようと。なぜなら、社会心理学が好きだから。社会心理学で生きていかないと、それはただ飯を食い排泄をするだけの生き物であり、私という存在ではない、と。

話を本筋に戻そう。
要するに、ある程度の自分の力量、自分が進むであろう道について考えておかないと危険だ、というのはアカデミズムの世界でも当然なのである。専門性があっても、それがウケないと。でも、自分の芸に惚れ込んで、自分の芸が好きじゃないとやっていけんのです。
そういう意味では、自己責任の世界なのです。それはそれは、学問の始まったころの昔から。

この本は終わりの方で、博士学位を取っても、それに捕らわれずに社会に出ればいいじゃない、という道を提案している。大学教職にこだわるからパイが少ないのであって、他に目を向ければ生きていけるところは色々ある、と。
もちろんそうです。ただしそれでは、悪く言えば「お上の思うつぼ」だ。だって、社会に学位を持った人間を流出させようと言うのが大学院重点化の狙いだったわけだから。「大学教員がいい〜」って粘っている人がいても、粘りきれなくなったらどうせ流出するだろう。そしてその方が幸せかもしれない。

島田紳助も、M-1グランプリの参加資格を芸歴10年と定めた。彼曰く、10年やって芽が出なかったら辞めた方がよいから。これはそのまま、アカデミック界に当てはまるんじゃないかな。

芽が出なければ、業界そのものが向いてなかったのだと思って、違うところに目を向ける。
それができる人はそうしたらいいのです。

ただ、世の中には、大学の中でないと生きていけないような人種がいます、確実に。
それは大学教員という既得権益云々、という話ではなくて、お金や地位が目的ではなく、本当に真実を求めることが生き甲斐であるという人間が、いるのです。それを受け入れる場所として大学は必要なのです。
この本は、そういう「研究者の熱い魂」についてはノータッチです。それがやや残念。

私がこの業界を目指したもうひとつの理由は、お笑いと同じく、かなり実力主義的なところがあるからだ。年功序列ばかりでもない*1。性別による差別もない。ただただ、学術的価値でもってその人が測られる。理想論ではあるが、そういう理想論を語ることができる程度が、一般社会よりはるかに高いだろう、と読んだのだ。自分の性格上、理に合わぬ事で割を食うのは納得いかないと思ったので、こちらの方が向いているだろうと。そういう意味でも、この世界の重要性だけは見失わないようにして頂きたい。

ただ、一つ私も困っている点があって。それは、非常勤講師の待遇問題。本書の帯にもあるように、

ある私立大学では、その大学で開講している全講座の専任教員による担当率はわずか24%だという。75%の講義は、大学で正規に雇われている教員によってではなく、その大学に本来関係のない外部の人たちによってまかなわれているのだ。大学の教育的義務の側面を考えると、これはまずいのではなかろうか。

ここで言う「外部の人」というのは非常勤講師で、私も長い間コレで食いつないでいたからよくわかる。保険や福利厚生があるわけでもない、アルバイターです。

この「外注」はやはりよろしくなかろう。これがあるからODの院生は食いつなぐことができ、大学は経費を大きく抑えられるのだけども、大学の本来あるべき姿ではない。

私がフリーの講師=非常勤講師をしていたとき、学生が授業の質問をしたいので「研究室にいつ行けばいいのですか」と聞かれて、「いやぁ、私はこのコマだけの担当だから」と返したことが何度かある。私は専任になりたいと思うより先に、大学の教育サービスとして、これじゃあいかんと思ったものです。研究室に行けば会える先生が、講義を担当すべきで、そうでないとこの手の問題はどんどん出てくるに違いないのだ。

だから、専任になった今は、なるべく大学にいて、学生が来たら優先的に対応するよう心がけている。

これからは、今の金銭一元的価値観が崩れてくる。少なくとも、私はそう信じたい。
結局人間にとって大切なのは、金ではなく、知であり信念であるからだ。そういう存在として、大学がもう一皮むけなければならない時代がやってくるに違いない。そのときまで、トークニズムに陥らずに、この業界全体の歪んだ構造をなんとかするよう、信念を持ち続けていなければならない。

夢と理想を喰って生きてきたのだから、これからもそうするだけさ。

例によってまとまらない文章である。
この業界に興味を持った方は、是非読んでみてください。
この業界にいる人は、読まない方がいいです(笑)どんどん暗くなります。胸が痛みます。

*1:ばかりでも、というのは、少しは年功序列の意義がある世界だから。学位があろうとなかろうと、長く業界にいて、考え事をしている人は、やはり自分の拙い意見よりも見ている世界が異なっていて、尊敬に値するので。アカデミック業界外よりは、相関が高いと思う