動詞の名詞化

とある雑誌に、「嫌いな日本語」というコーナーがあって、毎回面白く読ませて頂いている。書いているのは深川峻太郎という人。よく知らないんだけど、この人が違和感を感じる感覚が、きっと似ているのだと思う。今回のもなかなか秀逸。

 私が「いじめ」に違和感を抱くのも、そこに当事者の主体性や濃密な関係性を感じないからだ。本当は「いじめる者」と「いじめられる者」が直に対峙しているはずなのに、それを「いじめ」と読んだとたん、両者の繋がりは間接的なものになる。まるで、どちらも「いじめ」という現象に否応なく巻き込まれたかのようだ。
 ・・・いじめられて自殺した子がいるなら、その元凶は「いじめ」ではなく「いじめた奴」だろう。マスコミは必ず「学校にいじめはあったのか」と学校側に問いつめるが、これは「そこに愛はあるのか」と同じで、定義が曖昧だからどうとでも答えられる。・・・生身の人間が起こしたことなのだから、「自殺をした子をいじめていた子はいるのか」と問えばいい。自然災害と違って、その「主語」はあくまでも人間なのである。
 ・・・東京都教育委員会が生徒や保護者に配布した「緊急アピール」にも、・・・「ただちにいじめるのをやめて相手に謝りなさい」といった「いじめている子」への忠告は一切ない。学校には「いじめとその被害者」が存在するだけで、「加害者はいない」と思っているのだろう。

学校は教育的観点から、きっと「いじめる子も正しく導かねば」と考え、転じて教員や学校の責任を問う形になっていると思うのだが、子供同士の間で十万円単位のお金が動いたり、ましてや死者が出たりしている現状では、はっきりとその行為者に罪の意識を与えないと間に合わないのではないか。

子供が悪いことをしたとき、つまらないことであれば子供が謝り、大事であれば親が謝りに行く、という段階があると思う。が、先生が謝ったり、学校が会見を開くというのはもはや別次元であって、「大変なことをしてしまった!」と思うより「何かセンコーがテレビに出てるよ」と思うぐらいだろう。ましてや先生が軽んじられる昨今では、「先生に謝らせてしまって申し訳ない」という実感なぞないのではないか。

『名前は明かさないが、いじめている子がいて、強盗、傷害の容疑で捜査中。これ以上は本人の弁護士を通して下さい』という記者会見があればいいじゃないか。責任のあることで、誰かがその責任を負わねばならぬとしたら、本人なのである。もはや先生や親が肩代わりしてやれないレベルではないのだ、そういうこともあるのだ、と教えるだけで、いじめは減るだろう。