てっちゃんのじゃがバター;教育と価値観のはざまで

北海道に出かけていたんだけど,家族にもおいしいものを食べさせようと思って,海鮮のお店とかジンギスカンのお店とかを事前に予約して行ったわけです。

私が子どもの頃は親に北海道旅行につれてきてもらうなんてことはなく,飛行機に乗った段階でこの子らは贅沢だなあと思っていたんだけど,さらに驚かされることに。

初日は友人らと会うことになっていたので,居酒屋さんに行ったのだけど、そこで長男がじゃがバターを頼んだのです。まあ北海道だしね。おいしいよね。じゃんじゃん食べるといい。彼も「オイシイ〜!いきててよかった〜!」と言うのですが(五歳児風情が!)まあ喜んでくれたのならそれでいい。

問題は、次の日,海鮮やジンギスカンを食べにいっても,そのお店でじゃがバターを頼むのです。そして,おいしいおいしいというのです。

父は,海鮮丼やジンギスカンを食べてほしい。味わっておいてほしい。さあ食べろ、というのだけど,彼は「じゃがバター最高!極楽!」みたいな感じなのです。

 

贅沢なんだか,本当の贅沢をわかってないんだか,というような話を同僚にすると,「彼にとってはそれが最高なんだから、価値観を押し付けてはいけない」と諭されました。俺の考える、その先のもっと幸せ,もっと喜んでもらえるだろうこと,は彼に取ってはどうでもいいこと。値段や風習抜きにして、自分の好みだけに振り切っているんだから、むしろその気持ちを大事にしてやろうよ,と言われました。

さらにいうと,息子ができたときに「大きくなったらキャッチボールをしよう」と思っていたので,6歳の誕生日ぐらいにグローブを買ってやろうと思っていたんだけど,彼は「杉の井ホテルに連れて行け」という。五歳児風情が!温泉宿が誕生日プレゼントでいいのか?!と思うけど,これも同じ話。周りには,そんなにキャッチボールがしたいなら自分の誕生日に子供用のを買って,「お父さんの誕生日だから一緒に遊んでくれ、というのが筋だ」とまでいわれました。

 

翻って。

学校教育現場では,子どもに規則を学ばせる,人の輪に入れない人がいたら入れてあげてみんなで楽しむ,教室が一体になって・・・・ということを目標にしがち。だけど,一人でいたい子どももいれば,みんなと違うことがしたい子どももいるわけで。もっと自由でいいんじゃないか,ということを常々言ってきているわけです。

教育は個性が大事というけど、その心は学級内や校内での分散はなるべく大きい方がよい,ということをさします。一次元的に幸福を測ることができるとすると,もちろん平均値が高いことは必要ですが,みんながそれぞれ自分なりの幸せであるように,分散を大きくすることが望ましい。逆に分散がゼロであるというのは全体主義,ファシズムなので,それにあわない子どもたちはどんどんドロップアウトしていく。そういう圧力をかけないように,教員は学級経営をしなければならない。

とか教えているくせにね。

こと自分の子どものことになったら,これが幸せなはずだから、こうしておいたらいいはずだから,と助言という名の押しつけをしているのかもしれないなあ,と反省しました。今後,このことは「てっちゃんのじゃがバター」という教訓にしておきたいと思います。

息子の名を冠した教訓ができるのは,「てっちゃんの手品」以来,二つ目です(´Д` )