「わかる」と「はかる」

わかる,いろいろ

分かる、は小さい単位に分けることができること。

解る、は機構・メカニズム・理論がわかること。

判る、は善悪などの価値判断ができること。

逆に、

分からない、はどうやって分割して対応したらいいかに困っていることなので、区分の仕方、より噛み砕いた説明が必要。

解らない、は要素のつながりがみえてないので、要素が分かってるか確認して、つなげ方を丁寧に説明することが必要。

判らない、はどの価値基準に準ずるかというルーマン・システム論的悩みで、どのコードを使うか選択してもらうことが必要。

平仮名のわからない、はどの「わからなさ」かもわかってないので処置なし。

と、此処までは師匠の受け売り。

わかる、をはかる

わかった、というのは自分の中になんらかの「情報源」や「価値基準」が出来たってこと。

たとえば、「1,2,3…あとはわかるな?」と聞かれて、わかったといえるのは、そのパターンが(数列産出機構が)自分の中に入ったことを意味する。

つまり、「わかる」は「以下同文」の体得。

「わかる」をはかるために,相手が受け身的であれば,テストをしてわかっているかどうかを確認する。わかっているのであれば、多様な質問をしても対応できるはず。何故なら、対応機構が入ってるはずだから。様々な項目を使って「以下同文」としてパターンを応用できるか検査する。

逆に「わかる」をはかるために,相手が能動的であれば,いくつものパターンを生成させてみればよい。はかりたい対象について,いく通りの説明ができるか。関連する事象をいくつ挙げることができるか。何通りの現象に応用できるか。この「生成パターンの多さ」がわかっている程度であると考えられる。

ポートフォリオという学生の履修カルテのようなものが流行っているが,これはそうした「生成されたパターン」を記録して数え上げましょうという考え方。ただ,生成パターンを記録した紙の厚みで測定し,それを理解度の近似値と推定するのは下手な使い方である。アウトプットの量に興味を持つのではなくて,あくまでも生成可能性が理解の程度であることを忘れてはいけない。

目に見えないものを,はかる

テストの考え方を逆転すると,はかれるということはそこに何かがあることだ,とも言える。これが心理測定法の基礎。

つまり,妥当と考えられる一連の質問群を投げかけるとき,反応に一連のパターンがみられるということは,その構成概念の存在を仮定してもよかろう,という話。

「性格とは何か」「性格テストで測定できるものである」
「性格テストで測定できるものは何か」「性格である」

というトートロジカルな話のもとはここにある。

ただ,刺激が妥当でなくても,反応に一連のパターンが見られてしまうと,そこに構成概念があるんではないか,と考えられてしまう。よくできた性格検査の中に「ラーメン好きである(はい・いいえ・どちらでもない)」みたいな項目が入っていて,これを含んだ尺度の信頼性係数が十分に高かったら,この項目を排除できない。反応に一連のパターンがあるんだから,ラーメンは性格の一部でしょう,ってなことになる。

だから,妥当性は,尺度の前に十分に考えられる必要があるし,尺度で測定する前にしっかりとその言葉の定義をしなければならないのです。

という話を来週の集中講義でします。
昨日は大学院の追いコンで,臨床系の学生に「フォーカシング的態度尺度」について「それはなんなのよ」と一時間以上問い詰めたけど,妥当な答えが返ってこなかったので,私はそれを信じられないでいます。ということもあって,書きました。

追記) 測定の前に妥当性を考えろ,っていう話はもう一つ注意があって,「はかるとはかれる」ことにもつながります。ないものであっても,回答用紙を差し出してどこかに丸をしろ,と言われると丸をしてしまうもの。丸がついたことで「ほらみろ,あるじゃないか」というのはヤクザの喧嘩みたいなやり方なわけです。私はこのことを「心理尺度の呪い」あるいは「てっちゃんの手品」と呼んでいます。ご注意を。