Kosugitti's BLOG

アンドロイドは正規分布の夢を見るか

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社会心理学

日本心理学会2015参加記その2

帰りの新幹線の中で書いてます。溜めたEX-ICポイントをつかって,優雅にグリーン車です。

でももう疲れているので,短く書いて寝るつもりです。

【二日目】

公認心理師法案が通ったことの報告会があったので,ベイズセッションの前半を抜け出して参加。くわしくはこちらを参照。

午後はペアデータセッションやSEMセッションに出てきました。実はお昼の間に12月のKSPの打ち合わせなどを挟んでいたので,結構ドタバタ。バタバタ。

夕方は広大の院生さんがセッティングしてくれたところ(結構雰囲気いいところ!)で交友関係を広め,温めしましたよ。いやぁ,Kちゃんも面白いこと考えているなあとか,F先生はジュリーのようにカッコイイなあとか,転勤族なのに小学校六年間雨で運動会に出たことなくて中一の時に初めて体育館で運動会しましたとかいう強烈な雨男Mくんとか,なかなか面白いタマを揃えておりますね。

【三日目】

朝から体力の限界を感じます。寝たはずなのに,体力ゲージが半分ぐらいしかないような。

普段は21時,22時に寝ているのに,この三日連続でてっぺん越え。お酒も飲んでいるからお腹もゆるゆる。でも連名発表が午前中あったので,とりあえず追加の分析でちょこっと遊んでからポスター会場へ。

お昼に名古屋名物のあんかけパスタを食べ,なんだこれっていう感じになっております。3泊4日,全力で学会活動をしました。ひらがな研究も継続的にやっていったら面白そうだし,体力は枯れたけど血気盛んというか意気揚々というか。帰ってからの後半授業に気合十分といったところでしょうか。

良い学会でした。



日本心理学会2015参加記その1

日本心理学会@名古屋に来ています。

前日21日に名古屋入り。夕方着いたのだけど,夜までの空いている時間に早速研究打ち合わせ。時間を有効に使えてよかったなあ。

夜は山大関係者が集まっての飲み会。10名ぐらいのつもりが最終的に16名という結構な大所帯。前夜祭のつもりが結構遅くまでたっぷりやりました。馬鹿話も大事な話もいろいろできてよかったよ。

初日は朝からベイズまみれ。ベイズ統計学が仮説検定の世界を変えるか,ということについてT先生が熱く語られ,その熱意や内容に激しく共感するとともに,指定討論者のO先生がいう「正しさで世界は変わらない。格好良さを見せつけると着いてくる人はいる」という指摘もまさにそう!と思う。

このあと計算機科学の話を挟んで,またベイズの話を聞いてきたんだけど,これからはモデラーが必要,という話が先ほどの話と相まって深く納得することしきり。ベイズ統計は自由なモデリングを許すので,今後はデータ生成モデルをイメージできる・記述できることが大事になってくる。これは人によっては,結構難しいことなよね。

従来型の仮説検定モデルは「検定できる形」に仮説を書き換える必要があった。逆に言うと,問いの立て方は決まっていたので型にはめれば誰でもナントカなったのよね。けど,それも自由でいいとなると面白いことを思いつくかどうか,それを表現できるかどうかが鍵になる。さあ,学生に「自由に思いついてごらん」といきなり言ってしまって何ができるか?

ポイントはデータをどれぐらい味わえるか,データの分布からどれだけ考察できるかという教育を徹底できるかどうかにあると思う。記述統計やグラフの書き方なんかは,統計法の授業でもサラリと触れるぐらいだけなんだけど,ここがポイントじゃないかしら。というのも,ベイズ統計の場合は答えが事後分布として得られるわけで,その分布をどう考察するかというところにあるわけだから,「データと事後分布を同じスクリプトで記述できる」(T先生談)のが利点。であれば素データのプロットの時点で考察する技術やアイデアってのを,素データの時点でしっかり読めるようになってないと。となると探索的データプロットのggplot2のようなアプローチが大事になってくるなあ・・・とか思うのですが,いかがでしょう。

余談だけど,古典的な仮説検定の考え方が,心理学教育にもたらす利点というのも一つあると思っている。帰無仮説を棄却する,という根性のねじ曲がった背理法をつかうことは,自分の思い込みを一旦否定する必要がある。確かに不自然だけど,ともすれば自分の思い込みだけで世界が分かった気になってしまう危険性に,くさびを打ち込むという意味合いがあったのよね。自分がこう思っている,そうに違いない,と思ってそのまま実験して,気に入らない結果が出ても認めない!みたいな話になってしまうともう全然ダメなわけで。もちろんこれは科学リテラシーみたいなところだけど,統計的仮説検定の考え方はそれを一旦止めて,「仮に違うと仮定してごらん」というブレーキをかけていたと思うんだけど。どうでしょう。

ついでに。ベイズと認知発達モデリングの話で,ロボットが概念獲得や言語学習する例を見せてもらったけど,すげえなあ,もうここまで進んでるんだ!ということに超びっくりしました。はい。

 

夕方は自分の発表セッション。いろいろな先生方に話を聞いていただき,あと発表とは違うところで様々な先生方にお会いでき,大変有意義な時間でした。発表終わりには出版社の方に挨拶に行き,ちゃんと自分に鞭を入れてきましたよ。

 

さて,夜は別の研究集会の打ち合わせ。内容は言えませんが,19時スタートで「21時には終わって軽くビールぐらい飲めるだろう」と聞いていたのですが,なぜか会議室レンタル時間ギリギリの23時まで議論が尽きず,ヘロヘロになって終わってから少しビールでも,と入ったお店は入店後数分でラストオーダーという・・・。俺ら真面目すぎるねん,ほんまw

 

ということで,前日と初日でもう学会大会でやるべきことのほとんどをこなしてしまったような気分。今日もスケジュール的には朝から晩までやることが詰まっているけど,明日まで体力持つかなあ・・・



ベイズ塾夏合宿2015

広島県竹原市,休暇村大久野島にて,ベイズ塾夏合宿をやってきました。

お昼に竹原市民会館集合。会議室を借りての勉強会。私はR言語によるプログラミングの話を。そのあと,最尤推定法,経験ベイズの事前分布の置き方などについてディスカッション。

宿に移ってからは写経。豊田先生の本をみながら,みんなでstanを書いて走らせるという合宿らしいメニュー。

翌日はまた市民会館に戻って共同開発ツールGithubの使い方講習会&演習。

 

なかなかこってりした合宿でした。実際に手を動かし,頭を動かし。新しい知識も技術も友人も得たしね。

今回はうちのゼミ生(純粋培養)が塾生見習いとして参加。未成年でもMCMCするんだぜ!帰りの車内でも後期のゼミ運営について喧々諤々しながら帰ってきました。

いいチームになりつつあります。いいメンバーが育ちつつあります。私も引っ張っていくだけでなく,引っ張られるようにしていきたいですねー。

 

追伸 メンバーから嬉しい報告を聞いた。嬉しい。みんなで祝えたこともよかった。



行動計量学会2015二日目と三日目

行動計量学会2日目。

@simizu706 氏に教えてもらったSEMコードの補正をかけて,きちんと動くことを確認してからホテルを出発。

今大会から始まったポスターセッション。他の学会に比べたら小さいけど(まあ学会の規模もそうだから),じっくり話ができる利点も受けているようで,盛況でした。

午後は柳井レクチャーと題した講演。事前に抄録集で読んでいった以上の驚きはなかったけど,これはfMRIをやっている友人に教えてあげないといけない内容かな。

この学会はサイズが適切だね。社会心理学会レベルだと,ちょっと大きすぎて挨拶するのに一苦労というところだけど,ここだと気楽に参加できる。

懇親会で,次期会場が北海道であることを知る。うーん,たのしみだ。何より春セミが例のトイレですよ!これはすごいことじゃぜ。

 

3日目は,飛行機の都合で午前中までしかいられなかったのですが,データサイエンスの今日的課題という話で,御大やA先生など,社会心理系の人が登壇されていたのが嬉しかったね。しかし,データを見抜く力ってのはどうやったら手に入るのかなあ・・・。

 

大会滞在中はいろいろ刺激的で,かつ日常を離れたところにいるわけだから,心が軽くなった気分だ。あれもしたい,これもしたい,あれもこれも面白そう。このモードで後期もガンガンいきたいもんだねえ。

 

追伸 集団は個人のもつ階層ベイズモデルだということにピンときた。固有値はその事前分布に使える情報を提供してくれる。



行動計量学会2015初日

行動計量学会@首都大学東京,に来ています。

午前中はとある研究協力のためのインタビューを受け,午後イチで一番聞きたかった研究発表を聞き,そのあとはラウンドテーブルに参加。

今大会から,ラウンドテーブルとかポスター発表ができた。新しい取り組みはいいことだと思うのだけど,正直,ラウンドテーブルがラウンドテーブルとして成功した学会ってないね。多分その理由は,参加人数が多すぎる=ディスカッションにならない,ということで,参加人数が少ないとやる必要がないし,参加人数が多いと話し合いにはならない,というところで,学会大会のコンテンツとして向かないのかなぁとすら思う。

ラウンドテーブルというのは「みんなでワイワイいう」というところなんだろうと思うけど,自由でオープンで大会という性質上,合わないのではと言う意味です。うまくワイワイするために,話題提供・指定討論という形をとると(実際そういうようになっていたんだけど),それはワークショップとか自主シンポという形だと思うんだよねえ。

もちろんこれはラウンドテーブル,という形式についてのコメントで,やっている内容はいずれも興味深く,勉強になった。Rの統計教育やデータサイエンティストの取り組みも面白かったし,因果推論はヒートアップして(ショーアップされて?)て,よかったなぁ。

 

夜は非対称部会の懇親会。規模は小さめでしたが,それだけにじっくり話ができて面白かったと思います。

 

最後に,首都大学東京@南大沢キャンパスに行く場合は,多摩センター付近の宿が正解。新宿から30分ということで,新宿の宿にしたけど,特急に乗らないと30分ではつかないからね!

 



科学的実在論を擁護してきました;YUEP2015

土曜日はYUEP読書会でした。

課題図書はこちら。[amazonjs asin=”4815808015″ locale=”JP” title=”科学的実在論を擁護する”]

最初の方はこれまでの理論の整理,最後の方に著者の主張が来るんだけど,擁護するという著者の主張が「公理系=モデル=実在(世界)」という形にすると,モデルはいろいろ否定されても公理系は傷つかないからいいよね,というところ。

この話は,自然科学系の科学論,という意味では非常にわかりやすいんだけど,我々は心理学という変な領域をやっているので,イマイチしっくりこない。というのも,心理学はそもそもの成り立ちがモデル論的(S-Rの間に心というブラックボックス・モデルを仮定する)なわけです。だからモデルが乱立するし,モデルとデータの適合の程度を統計学で担保してもらったりする。あるいは,モデルを拡張したり批判するために,新しい現象を見つけてきたりする。だから,わざわざ「これからはモデルを挟んで,世界と公理系の間を橋渡ししたら?」という主張が,我々にとっては当然の前提で・・・という感じになってしまうというところだろうか。

ただ面白いのは,心理学は公理系を作ろうとしないんだよね。しない,というかできない,というべきだろうか。

で,読書会メンバーで,例えば認知心理学における公理系(どの認知心理学者も認めている前提)って何があるだろう,といいながら次の二つを思いついた。

  1. 人間は情報処理機械である
  2. 人間の情報処理能力(速度、容量)には上限がある

これに加えて,@FUJIKIDaisuke 先生が「活性化拡散理論はもう公理といっていいんじゃないか」と言ってくれました。ネットワークモデルか,なるほど。

残念ながら,特に私のいてる社会心理学においては,そういう話が全く出てこない。社会とは何か,社会と個人の関係はどうあるべきかについて,共有している前提ってないのかしら。以前「数理社会心理学の基礎」というエントリを書いたんだけど,こういう話を共有できればなぁと思います。

ところで,先日stanをつかってモデリングをしていた時に,不思議な感覚を覚えた。モデルを書いてMCMCしていたんだけど,そのモデルの書き方がシミュレーション研究のパラメタ設定をしている感覚だったんだよね。となると今後,階層ベイズが一般的な手法になってきて,「データを生成するモデル」を考える必要が出てくるだろう。そしてそれを考えていくと,そのモデルを支えている世界観=公理系が必要になってくるはず。そのことになって,やっとソシオン理論が日の目をみるのかな,と思ったりしています。

相対主義が身体化されきった世代の人間にとって,どの研究・モデルも「お前がそう思うんならそうなんだろう,お前ん中ではな」という考え方はもう当たり前,それ以外がイメージできないほどに身に染み付いているわけです。そうすると,ますます論理実証主義的な考え方の世代とは会話がずれていくなあ,と思いますが,そういう時代が来ると「モデルとそれを支えている世界」の適応範囲の広さや説得力が重要になってくるはず。

教養を積まないとなぁ。

 

追伸 ちなみに,ツイッター上で一番面白かった反応はこれ。


さすがやで…



集団とは人間関係行列の固有値である

先日の飲み会で少し漏らした,ちょっとおかしな話を書いておきます。

人間関係の強さを行列で表したとします。なんとなくだけど,関係の強さが-1〜1に標準化されているとして,弱い3人集団だったら,こんな感じ。

[crayon-5bc6fcf486187293997950/]

[crayon-5bc6fcf486197821544553/]

[crayon-5bc6fcf48619d341061711/]

[crayon-5bc6fcf4861a2607781804/]

第一固有値が0.6で,これは1よりも小さい。ガットマン基準で考えると,固有値1に満たない因子は因子として認めないから,これは有意味な因子がない行列。

強い関係の集団だとします。例えば0.7ぐらいの強さ。

[crayon-5bc6fcf4861a8188667764/]

[crayon-5bc6fcf4861ad856097725/]

[crayon-5bc6fcf4861b2097654374/]

[crayon-5bc6fcf4861b7359446090/]

今度は2.1なので,これで意味のある因子がひとつ得られたというところでしょうか。

もちろんこれは全部の要素が同じ行列だから,強さが0.333…であれば固有値1.0を出すことはできるんです。
数学的には何も面白くない。

でも,人の関係というのは強弱があるので,多少事情は違います。非対称行列になるし,対角項はどのように考えるか(自尊心?)についても諸説あるでしょう。でも,基本的な考え方は関係が強くなると共通因子として抽象的なものの実体が固まってくるというもので,まさに集団は人間関係行列における固有値であるということができるのではないでしょうか。

ちなみに細かい説明は省きますが,非対称行列から得られる固有値は複素数になり,そのままだと寄与率をうまく計算できないので,Chino’s HFMで分析する必要がありましょう。

Chino’ HFMは非対称成分を虚数にした複素行列での非対称行列にしてから固有値分解すると,固有値が実数で得られるよという話で,Rで簡単に実行できます。

[crayon-5bc6fcf4861bd437538115/]

[crayon-5bc6fcf4861c2607321942/]

[crayon-5bc6fcf4861c8592702961/]

[crayon-5bc6fcf4861cd350836599/]

この時の第一固有値の寄与率は,

[crayon-5bc6fcf4861d2394864582/]

[crayon-5bc6fcf4861d7683261192/]

これぐらいですから,十分な大きさでない。これが比較的強い関係だと,

[crayon-5bc6fcf4861dc251407162/]

[crayon-5bc6fcf4861e1996910245/]

[crayon-5bc6fcf4861e6462246412/]

[crayon-5bc6fcf4861eb585086465/]

[crayon-5bc6fcf4861f0846459969/]

[crayon-5bc6fcf4861f5021811225/]

となります。

要素間の関係の強さがある一定の基準を越えると,抽象的な関係が像を結ぶ,これが集団だと私は考えています。

人間の面白いところは,例えば今3人集団でやっているので関係行列は3by3ですが,その固有値が1をこえて実体として把握できるようになると,それを変数として4by4の行列に増えて考える,というところです(「みんな」という要素を考える)。

逆に弱まると消えます。随時,像を結んだり結ばなかったりする,そういう対象を追い求める集団力学は,そもそもこういうところから考えていかないと成果を上げられないと思います。



測れていると思うなよ

今日のゼミでの話をまとめておく。

今日はとある尺度間の相関を見るような論文を読んでいたんだけど,少なくとも一方の尺度がそもそも何を測っているかわからない話であった。妥当性の低い尺度だった,と一言で切って落としてもいいんだけど,そもそもソレが尺度で測れていると思うのがどうかしてるぜ?という話になった。

心理尺度で測定するものは,多因子を仮定するとしても,対象としては一つの潜在変数である(だから尺度全体としてのアルファ係数が計算されるし,構成概念妥当性が大事という話になる)。その潜在変数は個人の中にあると仮定され,個人間で共通するものであるはずだ。例えば性格は,個人差はあるにせよ,五つの共通因子からなるとしているし,社会的態度も,その向きや大きさに個人差はあるにせよ,構造は共通しているのである。因子分析は,そういう個人間で共通した静的な構造を取り出す技術である。

さて,その個人間で共通しているという考え方が,実は重要だ。

例えば「東京タワー」とか「富士山」という対象にたいして個人が持つ印象や行動意図,情緒的反応は,個人差はもちろんあるにせよ,ある程度共通している(「どっしりしている」「好きだ」「登りたい」など)と想定するのは,ほとんど無理のない仮定であろう。そのパターンを取り出して尺度化(あなたの個人差はこの程度です,と数値化する)ことは可能である。これは,誰にとっても東京タワーや富士山ははっきりした対象だからであって,例えば誰も知らない地方のゆるキャラを対象に尺度化しても「わからないから何も思えない」となるから測定できないのだ。対象がはっきりと共通した認識をされること,が重要なのである。

そうした具体的対象物でなくても,心理尺度を作ることはできる。例えば社会的事件や出来事に対する態度や,政治や政党に対する態度だ。少年犯罪や地球温暖化に対する態度,というのは誰しもが「あぁあのことか」と思えるし,思っているものに違いがない(と考えられる程度に社会的共通理念がある)ので,その反応についての心理的モデルを作ることができる。政党も,中には色々な人がいるのだろうけど,その政党が持つ理念や方向性がある程度まとまっているので,評定してもらうことが可能だ。もし想定の程度が怪しいようであれば,教示の際に,「〜といった問題になることが多い少年犯罪ですが」といったプライミングをかますことで,同じ指示対象を想定させることが,ある程度はできるだろう。

こうした対象としてのまとまりがゆるくなる,あるいは個々人の中で想定されるものが違ってくると,測定はできずにcase-by-caseとしか言えなくなっていく。それでも例えば,「両親に対する態度」というのはある程度,共通した構造をもっていると想定できるかもしれない。だから,測定できるかもしれない。

私の父親,母親に対する私の態度と,あなたの父親,母親に対するあなたの態度は,違う人に対するものだから,例えば印象とかのレベルでは全然一致するものではないだろう。しかし,「何かあったら自分が面倒見ないといけない」とか「子どもの頃はとても優しく接してくれたと思う」,「自分の子どもには自分が親にしてもらったようなことをしてやろうと思う」という言葉で表現される心理的反応は,ある程度,社会文化的通念のようなものとして,共通した態度空間を想定しても良いかもしれない。

それではさらに個別事例に分かれやすい話であればどうだろう。例えば,恋人に対する態度である。個人的には,このレベルでの反応はギリギリ認められるかどうか,である(だって私はロマンチストだから)。恋仲になった二人がすること,思うこと,というのは結局のところ,誰だって同じようなことをしている・思っているのかもしれない。それでも,私が私の恋人に対して抱く感情や行動意図が,あなたがあなたの恋人に対して抱くそれと同じ構造を持っているかというと,ちょっと違うんじゃないかなあ,と思う。まあこの辺は,議論の多いところだろう。実際,Rubinのlove-liking尺度というのがあるわけだから,冷めて考えてみると恋愛的好意というのは個人間で共通する構造を持つのだ!と言うのであれば,まあ認めなくはないけどさ。

ただし,恋人に対する態度を測定する時に,調査対象者の中には交際相手がいない人,交際をしたことがない人というのはいる可能性があるわけで,「そういうときは,いるものと思って回答してください」といった教示をするのはやりすぎだろうと思うのである。交際をしたことがない人が,恋人とはきっとこういうものだろうと想定して回答したとして,その回答と実際に恋人がいてその人を思って回答するのとでは,対象が違うこと以上に実質的な違いもあるだろうと思うからだ(思いません?)。もちろん,実際にやってみて検証しろよ,という向きもあるかもしれないが,そこで差が出なかったとしても社会的望ましさによるものであり,社会通念としての「恋人」についての反応だから共通構造が出たと考えられる。

だから,家族のあり方や恋人のあり方が多様化していく中で,こうした調査は色々注意しなければならない。例えば「お父さんについてお答え下さい」といっても,同居していないお父さん,血の繋がっていないお父さん,三人目の育ての父,など様々なパターンが考えられて,中にはお父さんのことについては聞いて欲しくない,という人もいるかもしれない。そういう人に,「いわゆるお父さんであればなんでもいい」みたいな聞き方は失礼だし,そんなやり方でなんのデータが得られるというのだ。

 

さて。さらに問題になるのは,例えば「友人に対する態度」や「教師に対する態度」といった,対象の枠組みが明確でなく,かつ,対象の中での分散が大きいと思われる場合,である。「あなたは友人にたいして,なんでも相談できますか」というような項目があったとして,まず私の友人に対する私の態度と,あなたの友人に対するあなたの態度に共通するところはあるだろうか。さらに,その友人として,私やあなたは,誰を想定するのだろうか。

私の友人の中には,なんでも相談できる人もいれば,そうでない人もいる。この項目で思い描いた友人は「なんでも相談できる人」だったが,その次の項目でも同じ人を想定し続けて答え続けるだろうか?教示が「友人」だけであれば,様々に揺れ動くことの方があり得る話だろう。つまり,項目ごとに個人の中でも違う友人を想定していて,個人間でも当然違う友人が想定されているなかで,共通した心理構造がとりだせるだろうか?私は,これは無理だろうと思うのである。

いわんや測定の方法が,回顧を含むものであれば,なおさら悪い。すなわち「あなたは今までの友達になんでも相談できましたか」,というような聞き方は最悪である。思い出している時点で,かなり記憶の歪みが入り込んでいると考えられる。いわゆる貴様は今まで食ったパンの枚数を覚えているのか?問題である。そして「〜はあるか」と聞かれても,そうであったこともそうでなかったこともある,という場合,どう答えていいのかわからない。10年間の友人Aには相談したが,5年前の友人Bには相談する機会がついぞなかった,という場合に,私の友人一般は相談しやすい相手と私に認識されていたのだろうか?

こんな尺度(項目)からは,なんら実体的で有意義な情報は得られないだろう。得られることがあるとしたら,一般的に想定される<友人>に対する一般的な<態度>を持つであろうという想定に想定を重ねた架空の反応であって,隔靴掻痒,測りたいものが測れていないのである。そんなもんで測れていると思うなよ!

 

難しいことに,人間は断片的な情報から抽象化・概念化・対象化することが可能であるという認識メカニズムを持っているので,「今までの多くの様々な友人共通の<友人らしさ>」というのを抽出し,想定し,考えることができてしまう。できるのだが,そこに実際の友人は存在しないのである。

困ったことに,人間はそういう能力があるからか,五段階の目盛りのどこかに丸をつけろと言われると,なんとなく付けられてしまうのである。抽象概念としての<友人>について語ることは難しくても,その友人が「どちらかといえば仲良くしたいと思う」といった反応に丸を付けることは可能だ。なんなら,何も考えなくても丸をつけるだけならつけられるのだ。

さらに面倒なことに,複数の項目に対して付けられた段階的反応が山のように集まると,因子分析をすることでなんらかの傾向=因子を取り出すことができるのだ。この因子を取り出す手続きがルーチン化されてしまっているから,一定の基準で客観的に取り出せた,と思ってしまう。そうして取り出せたものの解釈をするときに,あら不思議,何か意味が通るようなまとまりをしているのである。なぜならそれは,自分が関係あるだろうという項目を並べたからであるし,回答者の方も文意になんとなく感じる共通性に従って反応しているだけだからだ。

本当に心の反応を測ろうとするのであれば,迂闊になんでも測れると思ってしまわないことが肝要である。あなたが測ろうと思っているものは,本当に思うようなものでしょうか?



春の方法論セミナーに参加してきました

社会心理学会の春の方法論セミナー、GLMMスペシャルに参加してきました。

行動計量学会の春セミナーでも久保先生のお話を聞いてきたけど、同じ人から違う切り口で繰り返し聞くってのも大事だね。わかり方ってのも一通りじゃないから、あーやはりそれは大事だなとか、あーそういう説明の仕方もあるか、とか。

とにかくデータは図にしろという強いメッセージは、よくわかりました。要は、GLMMってのは様々な要因、データの相と元に関する添え字一つひとつについて、データ生成モデルから考えなさい、分布に配慮しなさいという事なんだよな。図示するというのも、相ごとに切り分けて考えると自然に出てくる考えだし、図にすると今まで考えてなかった=考えられてなかった所も無視できないってのが如実に明らかになるのよね。

そういう文脈で行くと、従来の方法論は仮定でガッチガチ、緩めたいところはパッチを当ててシステム維持、という堅苦しさがあることに気づく。

清水くんが、分散分析をWindowsXPに喩えて、Windows7,8があるのにまだそれ使いますか?と言い表したのは、言い得て妙だな。カンシンシタヨ。

じゃあもうベイズで=Macで、という決心がつかない人でも、GLMMはできるようになっておいたほうがいいな。そのうち分散分析はオワコンという認識が心理学界にも遠からず訪れるだろうからね。

帰路では今日の刺激的な話を踏まえ、これをどう教育に生かしていくか、というのは難しい問題だなあと悩みながら、書くべき本の目次を考えましたとさ。



山口は素数だから–割り切れない気持ち

NHKのオックスフォード白熱教室を,ザッピング中にみつけて,見入ってしまった。素数の話だったんだけど,特に面白いと思ったのが「素数ゼミ」の話。

ゼミナールじゃないよ。蝉だよ。

研究されていて,本も出ているんだね。

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要するに,数年単位で地上に出てくる蝉にとっては,天敵のサイクルの公倍数にならないように素数年ごとに出現する,という話なんだけど(このアイデアをつかってGAで素数を発見できないかなぁ,と思ったけど効率が悪すぎるからあかんやろな)。

山口に来たばかりの時に,似たようなことを考えていたのです。

どうして山口には人が来ないんだろう?観光資源は豊富にあると思うんだけど,誰も足を止めないのはなぜか。

隣に広島や福岡という大きな街があるから?

圏内でも岩国,津和野,下関に取られて山口市内は残念な感じになっている。

でもこれってきっと,公倍数になれなかったからじゃないかと思うのよね。

徒歩,カゴ,馬,飛脚,汽車,電車,車,新幹線など,それぞれの移動手段で一休みする場所が必要で,その場所ごとに宿場町ができるわけでしょう。で,各移動手段の公倍数が大きな街になっていくんだよね。山口はそういう意味で,素数の街になってしまっているんじゃないか。

こういう交通網の観点に加えて,ハブになるかどうかというネットワークの構造的観点も加えて,見事に山口市はプライマリーになっちゃったんじゃないかしらと。

これってきっと,人文地理学とか都市社会学でちゃんと研究されている話なんだろうね。心理学者も地理的な距離と心理的な距離,といった現実社会との接点をもっと考えるべきだよね。

 

みんななんで山口市にこないんだろう,と市民は割り切れない気持ちをもっています。だって素数の街だから。

 

追伸 山口市は12月,クリスマス市になります。ってもっと宣伝したらいいのに。

 




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