Kosugitti's BLOG

アンドロイドは正規分布の夢を見るか

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2004 / 3月

旅立ちの前の静けさ

 今日は一日家でゆっくりしました。

 明日から東広島に出かけます。一泊二日の予定。
 月曜日からは二泊三日で姿を消します。日記は当然ストップするので、ご了承下さい。
 次に表に出てくるのは四月に入ってからでしょう。

 三月が終わる。我々にとっては、今年度が終わるという意味で大きな一区切り。
 今年度は、就職関係について、全く縁がなかった。来年度も「現状維持」でいられるので、収入の面で大きな心配はしていない。でもまぁ、そろそろ就職したいなぁとは思っている(相対的剥奪感)。
 しかし、研究面では十分な成果があった。投稿論文が二本掲載決定したし、学位論文も書き上げた。学位が出るかどうかはまだ先の話だが、出るか出ないかはもはや自分の手を離れた問題なので、ほぼ完璧にドウデモヨイ。 博士論文を書き上げたことにより、「私の専門は数理社会心理学です」と断言できるようになったのが、何よりの成果である。
 ただ、これだけの成果を上げたのだから、来年度も同じぐらい何かを成し遂げたいと思う。欲張りですか?まぁ欲張ってもいいだろ。ともかく、研究計画をもう少ししっかり練らねばな。

 気合いを入れ直したところで、新学期に続く。



おめでとう

 今日は学部の卒業式。

 謝恩会が船上パーティーということで、かなり楽しみにしていった。
 船の揺れによる酔いとお酒による酔いが微妙に交互作用して、大変楽しい時間を過ごすことができた。

 こういう場ではつきものなのだが、「何かコメントを」と言われる。
 人前で話すのには慣れているが、うまく話すのはいつも難しい。今日も思っていることが十分伝わらなかったような気がする。
 後輩の院生も順次話していくが、やはり経験がものを言うようだ。院生歴が長い人間の方が、うまく話せているとおもう。
 先生に至っては、言わずもがなだ。

 日中は、博士論文の手直しをしたりしていた。
 妙なもので、ある程度時間をおいて見直すと、あれほど自分なりによく書けたと思ったものが、穴だらけに見えてくる。それでも、審査してもらったものに対して評価が出るのだから、あまりそれを改訂しすぎるのは良くないだろう。このジレンマに悩みつつ校正中です。
 今にして思うと、書き上がってから三ヶ月、寝かした方がよいものが書けるな。

 投稿論文もそうだ。書いてから、査読の返事が返ってくるのが約三ヶ月。それぐらい間隔があると、査読者からのコメントも冷静に受け止めることができるし、昔の自分の問題点もよく見えるようになっている。

 何事にも無駄な時間というのはないものだ。人生ボチボチ・・・。

 映画「1980」を見に行く。

 いい映画だった。ロード・オブ・ザ・リングの倍払ってもいい。あ、でもあくまでも私の評価であって、決して一般的な評価ではないのでご注意あれ。友人Kや後輩Iならわかってくれるのではないかな。
 1980年の無責任さがうまく描かれていた。おそらく、80年に起こったニュースをタラタラ語られるよりも、この映画の方がよっぽど当時の雰囲気を教えてくれる。私が今持っている80年代情報(と少しの経験)からいっても、かなりうまく描写しているはずだ。もちろん映画中のファッション等の時代考証もバッチリだった(止まってる車も80年代仕様。ただ、学生の台詞の中に「チョー・・・」という表現が一回あった。それは時代を先取りしすぎではないか)。

 公式サイトを見て知ったが、監督自身、80年は良かったと語っている。表層的だったが、夢があったと。その後、情報化の波が押し寄せてくるし、バブルが来るなどして、80年「代」に入ると、悪いところが目立ってくるのだ。

 この映画の描いた80年が、当時の80年に近似しているとすると、劇中の高校生が、今の35〜45歳になる。私が最も忌み嫌う世代であり、躾がなされていないから子供にしてあげることもできないダメ大人の世代だ。自己完結的に、納得。

 多分、「1990」や「2000」という映画はできないだろうな。オウム事件は半ドキュメンタリーのようになって映画化されるかもね。あれも80年代末期か。



80年代

 「おたくの精神史 一九八〇年代論」講談社現代新書 を読んだ。

 この作者、日本語がへたくそである。読んでいて何度も癪に障る表現が出てくる。
 しかし、内容はなかなか面白いものであった。
 私は社会学者ではないが、こういう「現代社会の読み解き」方をするのは嫌いではない。

 彼曰く、八〇年代は「自意識を消滅させた」時代だだそうである。なかなか興味深い切り口ですな。その行き着く先が、透明なナショナリズムであり、エヴァンゲリオンによる「主体性の拒否」という終焉であるという。特に、エヴァが終わった後で、監督の庵野が『「お前たちが欲しいものって結局、こういうものなんだろう」という問いかけに対し、おたく(と呼ばれる人種)が「そうです」と答えてしまうディスコミュニケーションの中に、未だエヴァが存続し続ける』という指摘や、『エヴァが終わってから「ガンダム」が返り咲いている(のは、エヴァを正視できないほど主体性から逃れている)』という指摘、あるいは
『新人類は商品を送り出す側として、おたくは消費する側として存在した』という指摘は、うまく言い当てたなぁという感じがする。

 希望的観測を含めて言うならば、上記の八〇年代的感覚は九〇年代半ばまで続いたものの、ミレニアムを越えてからは「自意識=主体性を否定したままでは、結局何も進まないんじゃないの」という人間としての再生が起こっていると信じたい。その一例が、「バカボンド」に見られる肉体的感覚に根ざしたリアリティ表現(とそれを待ち望む大衆)であり、「白い巨塔」に見られる欲望の固まりとそれに伴う責任から逃れない主人公・財前五郎の登場(とそれを高視聴率で支持する大衆)ではないだろうか。

 うまく言えてるとは思わないが、ともかく、現代社会は新しい息吹が芽生えていると思いたいのである。

 ちなみに、個人的には今の三十代後半〜四十代の人間が、今のモラル破壊を引き起こした責任者だと思っている。当然、彼・彼女らを親に持つ子供は、可哀想なことに躾がじゅうぶんできていない。
 今の学生は、実年齢から10歳引いて考えるのがいいそうだ。すると、大学三回生でちょうど10歳。ゼミに入ってくるときに小学生四年生ぐらいのしつけしかできていないことになる。やれやれ。

 今日も阪急の特急車両で、二人座れる席に、体を半ば横たえながら携帯メールに興じるオッサンを見た。
 二人座席を一人で座れた方が、確かに気楽ではある。「隣よろしいですか?」と言われたら、断れない現状もある。だから、なるべくそういう声をかけられないように、1.5人前分の領域を(鞄を置くなどして)確保しよう、というささやかな抵抗をする人がほとんどだ。私は恥ずかしげもなく(なんで恥ずかしがらねばならぬのか)「すんません、空けてください」といって鞄をどかせる。しかし、さすがに今日のオッサンには「ちゃんと座れ」としか言いようがないし、喧嘩しても仕方がないので黙っていたが、「この日との親は、果たして躾をしたのだろうか?」とかなり根本的なところから悩んだ。

 あ、ちなみに、最近の若者を見てると「親はどうなんだろう」ってホントに考えます。多分、彼らは悪くない。親に躾が身に付いていないか、頭が悪いかのどっちかですね。

 今日は大学院の卒業式。正確には、学位授与式ですな。
 ということで、追い出しコンパがありました。D3、M2の連中が追い出されるわけです。社会に出るもの、進学するもの、私のようにDも出たのに宴会に参加するものなど、様々な面子で楽しみました。
 途中で質問コーナーがあって、「自分が負け組だなぁと思うときはいつですか」という質問には、院生全員が言葉に詰まった。そりゃそうだ。ある意味、負け組だと自覚していないと、院生生活は送れんでしょう。
 アフロヘアーにチアガールの格好をしてくれた若手(男)のおかげで、ずいぶんと盛り上がった。彼らと院生会執行部のおかげなんでしょう。私もかつては院生会執行部だったことがあるが・・・時代は流れるな、と実感して幸せになった。



餃子スタジアム

 梅田にできた餃子スタジアムに寄ってきた。

 九つの餃子屋とひとつのおにぎり屋からなる餃子のテーマパークである。立地も良くて、休日の夜なのに大変混雑していた。
 招福門のエビ揚げ餃子は美味しかったです。
 華興の小籠包餃子もよかった。ここの味はいいんだが、注文させた後無駄に並ばせ、かなり長蛇の列ができていた。人の流れをもう少し計算しろよな。大分またされたので、全体的な評価としては平均点ぐらい。
 丸亀すだち餃子はほとんど印象に残っていない。そんなにずば抜けてオイシイってコトもなかったからですな。
 久留米屋台餃子満州屋は、確かに謳い文句にある「タレなしでも絶品」の、看板に偽り無し。確かにうまい。
 静岡屋台餃子はキャベツの甘みが逆に嫌だった。もやしをつけてくれるのは嬉しかったが。
 味噌だれ一口餃子包包の、味噌だれは大変美味しい。他の店の餃子も、ここのタレをつけて食べたい。あるいは、タレだけ持って帰りたいぐらいだった。
 宇都宮の餃子は、オーソドックス。やはりオーソドックスなものは広く、長く愛されるのだろう。

 ということで、結構食べてます。
 近江牛餃子とグルメギョーザ、おにぎり以外は食べたことになる。

 で、全体的な感想はというと、「場所が狭い」。
 会場の混雑ぶりに辟易した、というのが強烈な印象として残るのだ。最初から各所を食べて回ろうと思っていたので、どの店でも一人前しか頼まない。で、それぞれで結構またされるから、長く並んでは二つ三つパクリ。また並んでは・・・の繰り返し。店の前に行くときは人混みをかき分けていかないと行けないし、座席が十分にないから、あちこちで立ち食いしている。我々は運良く、途中から座席を見つけることができたが。
 餃子はメインの料理にならないな、と思った。
 餃子を各所食べ回るぐらいなら、近所の一風堂にでもいって、腰を落ち着けながら満腹になった方がよいかも。
 あるいは、お昼ご飯とかおやつにむいてるんでしょうな。元々飲茶だしね。



ニュースなど

 昨日75.8kgだった体重が、さっき測ったら77.1kgだった。いかりや長助死亡のニュースよりも、このマイニュースの方が私には重要。

 高島屋で西京極スタジアムの阪神戦チケットを求める。初動が遅れたので、1塁側の座席は既になく、3塁側で見ることになった。しかしその後立ち寄った金券ショップで、1塁側外野のチケットが定価で売られているのを発見。定価なら、こういうところで買っても良かったか・・・。

 博士論文の手直しを始めるが、なかなかうまく言葉が出てこない。

 最近あまり仕事をしていない。やるべきことが無くはないのだが、気持ちの方が今ひとつピリッとしないのだ。
 やはり夜ごとの深酒がマズイのかな。

 少し生活を改めねばならぬ。



いでじゅう!

 昼頃のそのそ起き出して、漫画喫茶に行ってきた。

 本当はアサイチで起きて、お弁当と朝食を作って妻を送り出したのだが、寝たりなかったので昼まで寝直したのだ。正午に起きてもまだしんどかったので、これは体を動かさねばならぬ、と家を出ることを決意。
 本屋を目指して20分ほど歩いたのだが、漫画喫茶が出てきたのでそこに入ってみた。

 少年サンデーで連載されている「いでじゅう!」は、どこの漫画喫茶にも置いていなかったのだが、今日行ったところでやっと見つかって、全六巻を読破してきた。
 結論から言って、面白い。良くできているのである。

 私はギャグ漫画にはマイルールがあって、それに叶ったものしか読まない。

 第一に、シモネタを主にしないこと。全編シモネタで攻めた「南国アイスホッケー部」のような突き抜け方はある意味評価するが、決して認めるわけではない。「ついでに とんちんかん」が終わりがけに、陰部や臀部を大画面で露呈するだけの漫画に成り下がり、おもしろみがなくなったことは、同世代にはわかってもらえると思う。小林よしのりの描くギャグ漫画は、ギャグ漫画として認めないと断言できるほど、私には許せないのである。
 第二に、作者が内容に関与してこないこと。たまに「作者キャラ」が入り込んで、なかなか進まないストーリーを無理矢理進めることがあるが、これは漫画という仮想空間をプレゼントする前提を全く忘れた愚行である。前述の「ついでに・・・」も後半はほとんどそうであった。「究極超人あ〜る」も終わりかけの時に、この過ちを犯している。
 第三に、独創性。ギャグ漫画だけに限らず、「お笑い」には欠くことのできない要素なのだが、なかなか達成しがたいのも事実である。どこかで見たことあるな、と思わせた時点で笑えなくなる。これは、作者側にとっては大変辛いことだと思う。かなり広範囲にわたる知識、細かいところまで考え抜く力、それを画にする画力が求められるのである。まだやってるかどうかわからないが、バンチで連載していた「漢魂」は、この点に問題がある。どこかで読んだことがあるような、タダのだじゃれから派生しただけのような性質を持ち、画力が弱い。もっともこの漫画は、勢いで読ませることができるから、購入していた頃は目を通していた。しかし、間違えても単行本では買いません。そういう性質のものだからだ。
 後は明文化できないが、作者のセンスである。和田ラヂオは不条理漫画のやきなおしだ、と思わせるし、ジャンプで連載中でアニメ化までされた「ボボボーボ・ボーボボ」は不条理すぎて本筋が見えない。もちろんソレが不条理の真髄だ、といえるかもしれないが、私にとって笑いとは真なる世界と偽なる世界の境界を突いたものでなければならないのだ。完全に不条理・完全に無意味な世界は、逆に完全に面白味をなくす。「北斗の拳」が21世紀に入って、ギャグ漫画として読み直されていることを考えてみて欲しい。少女漫画になるが、「サディスティック19」はそういう意味で素晴らしい。

 さて、以上の条件を満たした漫画を探していると、なかなか全てに適合するものは見つからない。
 すでに述べたが、そういう意味で少年サンデーはなかなか魅力的な作品を載せる。「神聖モテモテ王国」はいまだにギャグ漫画界の最高峰であるし、今日読んだ「いでじゅう!」もなかなかいいところをついていると思う。少年漫画向きの、多少のエロとほのぼのさがあるのがよい。単行本を揃えようかな。

 夕食後に博士論文の「あとがき」を書く。謝辞は難しい。



合宿から帰ってきました

 昨日一日日記が書けなかったのは、ゼミ合宿に行っていたから。

 縁あって母校の合宿施設に行くことになった。色々思い出の詰まった、懐かしの学舎だ。

 60人以上もの大集団だったので、コントロールが大変だった。
 遅刻する者、病欠する者、連絡無しに突然現れる者。いちいちイライラさせられる。
 実験のファシリテイターとしても二日間いろいろやりました。

 昨夜21時スタートだった飲み会も、3時半に終わるまでビッチリおつきあい。
 おつきあいというか、つきあってもらったというか。二十歳やそこらの連中と体力勝負。まだまだ負けてません。
 彼らがすごかったのは、そんなに遅くまで起きていたのに、朝8時半の朝食時には全員集合したこと。タフだねぇ。

 しかし、うち解けすぎると、春から「先生」と呼んでくれるかどうか、不安になる(苦笑)

 帰りは教員と院生だけで、三輪でにゅうめんを食べて帰る。美味しかったので「恋そうめん」をお土産に。
 夕方には帰宅。仕事に出かける妻を送り出すことができた。さすがに車で送ってあげる元気はなかったが。

 夜、「白い巨塔」の最終回を見る。
 主人公・財前五郎の生き様には、色々共感できるところがある。子供ができたら教育のために見せようかな。



サム物語

 映画「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」を見てきた。

 結論から言って、面白くない。
 確かに3時間という上映時間を長く感じることはなかったが、ストーリー、キャラ設定などに謎が残るのだ。
 おそらくハリーポッターと同じで、小説を映像化したという意味での貢献は大きいのだろう。しかし、小説のおもしろさというのは、ただ字面を追っていては得られないのであって、頭の中に生き生きとその情景が描けるかどうかがミソなのである。その小説の特性に対して、CGを駆使して映像化するという回答を与えるのは、ある意味小説の良さを奪っている。

 あと、「壮大なスケール」にしたら面白いという発想に、既に食傷気味である。
 今年公開だっけ?スターウォーズも、このロード・・・にしても、今度公開される「トロイ」にしても、要は闘っているのがロボvsジェダイなのか、人間vsオークなのか、古代の人間vs古代の人間なのか、という違いだけで、本質的には「大軍の衝突を絵で見たら面白い」でしょう。先日DVDで見た「英雄」もそうだな。CGで数を増やすことができるからといって・・・壮大なスケールで送る、という売り文句は勘弁してください。
 ボタンひとつで終わってしまう近代戦争に対し、肉感的な・軍隊の衝突に現代人はあこがれているのかもしれぬ。やはり戦争は人間の本質的性格なのかもしれぬ。
 「ロード・・・」は、西洋人の中世に対するあこがれを感じたね。

 逆にスケールを小さくしても、面白い話は面白い。
 「12人の怒れる男」なんぞ、たった二部屋で話が進む。
 見に行けなかったが、「フォーン・ブース」は電話ボックスの中で話が進む。
 一般に、裁判もののドラマは、セットにお金をかけなくて済むのでストーリーが面白いという。

 一方で、面白そうな映画予告もあった。CASSHERNである。
 「新造人間キャシャーン」という昔の日本のヒーローものを全く新しい切り口で描いているようだが、真剣なSFっぽくて面白いかもしれない。昔の話の焼き直しというのはどうかと思うが、期待しよう。
 ドライブみたいに、CMカットと本編の内容が全然違ったら嫌だなぁ・・・

 追伸 学会HPでプログラムをチェック。また名前を間違われている。苦情のメールを出した。
    将来大物学者になって、漢字ごと名前を知られるようになるしか解決策はないのか?!
    このままだと、学会事務局・論文編集事務局に対するクレーマーみたいじゃないか。



公開!口頭試問

 今日は朝から緊張していたそうだ。妻談。本人は自覚していなかったんだけども。

 昼頃に大学に着く。指導教授が緊張しているのはわかった。なるほど、先生も緊張されるのだな、などと思っていたが、俺の方も大概だったのだろうね。

 口頭試問は公開。
 三人の先生方が座るデスク。その向かい側に一人だけ座る発表者のデスク。
 横に、30人分ある傍聴席。なんだか発表者席というより、被告人席といった感じだな。

 2時間と聞いていた発表時間が、1.5時間だったので、少し気が楽になる。
 冒頭に研究科委員長がアナウンス。
 課程博士の手続きを簡略化し、かつ、透明性を高めるために公開にしました、と。公開することで、後輩達は「博士号ってこんな感じで取れるのね」という情報が入手できるので、書きやすくなるだろう、どんどん書いてくれというメッセージが込められているそうだ。
 ついでに「質問は詰問ではなく、独創的な研究をされて論文としてまとめたのだから、むしろ我々が教えてもらうようにしましょう」という一言もついていた。ずいぶんと発表者に優しい言葉だなぁ。

 発表はキッチリ30分に納める。
 三人の先生方からの質問も、それほど厳しいものではないように思う。もっとも、うまく答えられていない感じがずっと残る。正直、辛い一時間だった。

 自分の未熟さを痛感する。論文を書き終わったときにも感じた。「今はここが限界です」、言い換えれば「今ここまではできます」。私の博士論文は、そんな感じです。

 最後に先生が、発表者の方から何か一言あれば、とふってくれたので、「今後研究者として生きていくことが許されるならば、これはスタートラインとなります」と答た。

 最後に三先生方が、今後やっていくだけの独創性は有している、と評してくれたのが嬉しかった。

 終わってから、先生や西宮まで出てきてくれた妻、応援してくれた後輩達と「お疲れ様」会。
 終電&タクシーで帰宅したのが2時前なのだが、室内着に着替えたとたん眠気を感じて朝まで眠りこけてしまった。
 心理的に疲れていたんでしょうね?



前日の過ごし方

 数値の間違いを直す。

 見直す。しかし、自分が信用できない。本当にこの数値で大丈夫か。

 見直すという行為は、間違いがなかったら無駄足だし、間違いが無くても不安感が失せるわけではない、という性質のものだと理解している。
 大阪出身のいわゆる「イラち」という特性なのか、生来の固有値野郎的性格なのか、私はとにかく無駄が嫌いなので、至極根本的なレベルで見直しを嫌がっているのだろう。それでいて小心者だから、何度も何度も見直しをして(本当は三度)、大丈夫だと思っているのに不安がぬぐえない。
 そんな感じで一日を過ごしていたら、いまさらながら少し緊張してきた。前日だから当然といえば、当然か。

 これも昔からなのだが、前日というのは緊張するものである。イベントの直前・・・半時間ほど前が緊張のピークである。有り難いのは、実際に始まってしまうと開き直れることだ。始まると、鼓動も落ち着くのである。
 面倒だから、早く明日になってもらいたい。

 夜は時間をもてあましたので、テトリスに興じる。いつまでもコツコツ積んでいく。どこまでもできるんじゃないか、俺。




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