Kosugitti's BLOG

アンドロイドは正規分布の夢を見るか

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2010 / 1月

smtpとproxy

職場でproxy経由のネット環境にあり、iPhoneからsmtp.softbank.jpに接続しようとすると失敗する。
Wi-Fiを切って、3G回線で送れば当然問題なくいけるのだが。

おそらく、ポート番号の問題じゃないかと思う。
調べるのが面倒なので、Wi-Fiを切る方を選択するけど。



KJ法、GTA、M-GTA、KH法など質的分析法といわれるものについて

 心理学の分析手法として、KJ法で、とかM-GTAで、と言われるとどうも違和感(より正確には嫌悪感)を覚えるのだが、それがなぜなのかを考えてみた。

 心理学はデータをとる学問だ。データのソースが人の生理反応であるか、認知状態の評定であるか(評定行動?)、あるいは書き表した論文・書籍・逐語録のようなテキストであるかはともかく、それをデータとして見て、そこから自分の仮説を検証する。仮説を検証するのはなぜか、というと、これはやはり自然科学的アプローチに憧れているから、ということになろう。哲学や数学も仮説を検証するが、それはあくまでも論理的な世界においてであって、現実世界に基づく、あるいは現実世界に還元される仮説であれば、それが正しいことかどうかの検証が必要である。

 データは、質的なものと量的なものに分かれるとされる。量的なものは、数量的なもの、数字に算術処理が施せるレベルのものであって、間隔尺度水準、比率尺度水準が量的なデータである。それに満たない、順序尺度水準、名義尺度水準は算術処理が施せないから質的データという。
テキストのようなデータは、そもそも数量レベルじゃないから、名義尺度水準の下にさらに「ごく質的なデータ」みたいなのがあるはずだ、というのは間違い。名義尺度水準は数字と対象の一対一対応が確保されている、というだけなので、ある逐語録全体に「1」という数字を割り振ることも可能。「1」とはサンプルAの5分による発言記録だ、というのがわかれば良いのである。

 「1」という数字にAの意見が、意図が反映されていない、というのであれば、発言記録の一文ずつに数字を割り振るとか、一言一句に数字を割り振るとかすればよい。そんな細切れになった言葉では、文脈が反映されていないからだめだ、というのであれば、どの語・どの文が前後にどのようにつながっていたかに数字をつければよい。

 いやいや、それでは文章の背後に隠れた、サンプルAの本当の気持ち、本当の心が示されえない、という反論は、語るに落ちるというヤツである。それは畢竟、データになっていない情報がある、ということだから、研究テーマが間違っていましたよ、あるいは研究じゃないですよといってるに等しい。

 ここではなにも、データが心の全てである、ということを言っているのではない。むしろ逆で、データは心的状態の一部でしかないことを自覚しつつ、その一部の「表現形」をできるだけ理解し尽くす形でアプローチしなければならない、ということである。全部ではないが、データで言えることは全部言う、という心構えを言っている。

 さて、KJ法という技法がある。これは川喜田二郎氏の考えた問題解決技法・発想法で、アイディアの粒を分類することで思考を整理し、新しい発想を得るためのものである。が、心理学においては、ちょいと違った用法に重点が置かれている。すなわち、テキストのような質的なデータをカードにまとめ、カードの類似・非類似を元に分類し、クラスターを得るというものである。カードに書かれているのは、一つ一つの発言や命題であり、分類は複数の(専門家、時には大学院生のような研究者の卵、時には学部生のような素人、による)評定者が行う。これによって、概念をまとめることができるというものである。心理学的に重視されるのは、複数の評定者が行う、という点であろうかとおもう。すなわち、複数の=客観的、評定者が=人間という「意味を解釈できる主体」がすることの安堵感である。つまり「数字とかコンピュータは苦手。気持ちが伝わらないから。でも客観性は大事って言われたので」、という人にはもってこいの手法なのだと思う。しかし、複数=客観的といってもたいがい数名という小サンプル、意味を解釈できる=無理解・誤解を含みきわめて不安定、という欠点は残る。

 GTAとかM-GTAとかいう手法もある。これはGrounded Theory Approach、あるいは修正版GTA、と呼ばれるもので、この数年、心理学における質的データの分析で大流行しているものである。名前が表すのは、地に足がついた理論を形成するためのやり方、である。GTAをやるっていう人は、なぜかその手法を論文の中にこと細かく書きたがるので、いやでもだいたいの概略はわかってしまうのだが、要は質的なデータをとる、KJをしてクラスタリングをする、クラスタリングを元にデータを見直す、クラスタリングを修正する、これを繰り返して収束したら次のデータをとる、次のデータでも当てはまっていればOK、というやり方のようだ。抽象化と具体化をぐるぐる回るあたりが「地に足がついた」のところで、作業量は多いけどじっくりデータを見ることができて、意図をくみながら理論を構築できるところが好まれているようだ。穿った見方をすると、単純だが大量の作業を繰り返しているうちに、なんだか研究をした気になっていくとか、認知的不協和の解消のために出てきたものが理論じゃなきゃ困る、という背景があるように思う。これはしかし、プロセスの内部にKJを含んでいるので、KJの批判がそのまま当てはまるし、反復することで修正できる可能性があることは評価するが、ひとたび形成した枠組みでしか対象を捉えられなくなってしまう、という大きな弱点がある。たとえば二重盲検法のような、判定者自身を相対化・客体化できる技法が含まれていない。ここでやれることは、理論に向けたアプローチであって、せいぜい仮説の導出ぐらいである。

 KH法という手法もある。関連性評定に基づく質的分析、というらしい(http://www.psystat.com/kasai/)。言ってみればこれは、KJ法+数量化III類+クラスター分析のパッケージングで、質と量を組み合わせているところに長所があるのだろう。個別の分析をセットにして新しい名前をつけているだけなので、オリジナルな分析方法ではない(手法そのものに学術的価値はない)が、初学者にわかりやすい命名をした、というのがいいのかな。いいんだろうな。別にこういう名前をつけられなくても、やる人はやってましたけどね(NW法)。

 こうすると、違和感を覚える箇所が徐々に明らかになってきた。

 一つは、客観性や一般性の確保を目標とする手法である!と強調するのに対して、実はそれほど客観的でも一般的でもないという事実。ただこれは、質的分析のぉぉぉ!と声高に言う人に対する反論である。すなわち、KJ法GTA、M-GTAはあくまでも理論化を助ける手続きであって、客観的事実を提出するための(提出できる)技術ではないということ。本来これらの技術は、考えを整理し、新しい発想を生み、モデルの逆・裏・対偶を探すための発想法なのである。そういう意味では、研究にあたっての思考のマナーであり、本題に入る前に十分終わらせておくべきところである。それがいかに大量の作業であっても、準備運動は準備運動に過ぎず、せいぜい資料論文止まり。本来「問題」を書くところに自分の思考の文脈を筋道立てて記すためにやるべきことで、これが「方法」や「結果」のところにくるのは間違っている。

 また一つは、手法の解説についての疑義である。たとえば因子分析をするときに、1.各項目の平均値と標準偏差を算出し、2.標準化された得点から、3.相関行列を算出し、4.相関行列の累乗に任意のベクトルをかけて、5.収束したところを第一固有値と定めて抽出し、6.固有値に基準化したベクトルをかけ、元の行列から引くことで残差行列を算出し、7.第二固有値を算出し、8.以下同様に全ての固有値を算出し、9.共通因子と思われるところで因子構造をさだめて因子負荷量を算出し・・・と論じている論文があろうか。当然、ない。これは因子分析モデルについての妥当性はモデル検証を専門とする学会(Psychometrika、行動計量学会等)で議論されているからで、心理学などの論文では技法よりも内容を問題にすべきだからである。

 まとめると、「M-GTAを施した」という表現の気持ち悪さ(それはただのアプローチ法だろうに)、手続きと方法の混同(それはただのアルゴリズムだろうに)、が不愉快なのである。

 論理的な反対意見は以上の通り。加えて、嫌味をいうと以下の通り。

 すなわち量的な分析がいやだからKJ法で、という逃げの手法として用いてんじゃないの、と思うからである。

 データをとる、と決めた時点で、それは既に尺度水準の上に乗っていると考えるべきだ。数量化III類だけにとどまらず、名義尺度水準を分析する多変量解析的手法はたくさんある。なぜデータをとるのかといえば、それが反証可能性を保証する科学になるからだ(ナイーブな科学論だとはわかっているが、一応そういうことだ)。だから、KJ法をアイディア発見のために使わず、資料として使うのであれば不十分だといえる。概念化できたのであれば、数量的にその特性を記述し、妥当性を検証することも可能だからだ。ただし、数量的計算が直接できないという意味で、逆に、計算方法は複雑になる(固有値分解と特異値解の違い、結果をどの空間に写像するかなどの判断等)。調査実験をする時間がないからKJで、というのは逆で、むしろ調査・実験を正しく行った方が、計算モデルとしては単純で済む。

 量的な分析が好きな人は、なんでもそういう方向に持って行こうとするのだ、という批判もあるかもしれない。しかし、量的な分析をする人は、それで言えることと言えないことの限界が、痛いほどわかるものである。手法が客観的=誰がやっても同じである限り、数字が無味乾燥なものであるからこそあらゆる分析法を駆使しても、答えが出ないときというのはある。そのときに無理に答えを出さず、「意味なし」、「判断保留」、「データの限界」を宣告する責任がある。自分の理想と異なるものであっても、である。これが検証するということ、反証可能性があるということだからである。

 量的な分析が嫌だから、というのは結局、反証可能性を閉じていることでもある。自分が見たいものを、見たとおりに表現したい、数学というよくわからないフィルターで見えなくなったら嫌だ、という考えに通じるからである。よくわからないのであれば、学べばいい。そのために先輩や教員を利用すればよいのである。見えなくなったら嫌だ、というのは見たいモノしか見たくないということであり、それは科学の道ではない。

だから私は、質的分析を、と声高に言うことに恥ずかしさを感じ、それをおずおずと言うことに嫌悪感を覚えるのだ。



性差

娘「おとうさんは、男の子でしょう。私は女の子でしょう」

父「そうだよ」

娘「女の子だったらよかったのにね」

父「男の子だって楽しいことがあるんだよ」

娘「女の子の方が楽しいよ。あ、良いこと思いついた。勝負しよう!」

父「勝負?お父さん、男の子代表か?」

娘「そうよ。じゃんけんして、勝った方が、良いことをいうのよ。良いことがあったら、勝ちよ」

父「それはじゃんけんで勝負が付いているんじゃないのか・・・」



エスケープ!

エスケープ!

アンジャッシュのコントは、革命だ。従来のその他多くのコントとは、一線を画している。
彼らのコントは、基本的に言語ゲーム、語の用法についての遊びだ。同じ言葉も、立場や状況、その人の持っている情報が異なれば全く違う意味になるということ。そしてゲームが即終了せずに、続くというおもしろさ。このアイディアが画期的である。
あるいは、彼らのコントは実体概念から関数概念への転換だ。オブジェクト指向のストーリー展開だ。関数の振る舞いは一定、しかし引数次第でいかようにも振る舞いうる。もちろんプログラマは、プログラムの振る舞いを制御しなければならないのだが、彼らのコントは許容できるバグを楽しむためのものだ。
ユーザーはただ楽しむだけで良いのに対し、プログラマはその設計に頭を絞る。プログラマはその世界の成立(マシン環境)を熟知していなければならない。そういう意味で、頭がよい。

著者、渡部健も、そういう頭の良さをもっている。

この本は、まさに、アンジャッシュのコントだ。
小説としては、処女作品にありがちな情景描写のつたなさが目に着き、さほど高く評価されるものではないのかもしれないが、帯にあるようにすぐドラマ・映画にできそうなほど完成度が高い。
アンジャッシュは、この高いレベルのエンターテイメントを、コントという非常に身近な媒体で提供してくれる、たいそうサービス精神にあふれた人たちであり、だからこそ見る側としては、贅沢をしている気分になる。

著者が小説の方で生きていくとするならば、ショートショート形式で量産する等、もう一工夫がいることは間違いないが、読後に本という新しいテイストで「贅沢さ」を味わうことができたことに感謝する。

余談だが、コミュニケーション研究をする人は、ヴィトゲンシュタインやミード、ベイトソンなどを触れると同時に、アンジャッシュも味わっていなければならないと思うのだ。それもまた教養。



JOC、ジュニアオリジナルコンサート

今日は娘の音楽発表会。幼稚園の部活みたいなもんで、ヤマハ音楽教室に通わせているのだけど、ヤマハ教室全体での発表会があって、そこに参戦することに。

夏休みに面白かったことを詩にしましょう、という宿題があり、花火で楽しかったという思い出を詩にしたものを、ヤマハの先生が曲をつけ(そのプロセスで毒気の抜けた、可愛らしい歌詞に変わっていた)、それを今日発表するという流れ。演奏形態「うた」、作曲者が娘として紹介されたのには違和感を感じたが、まぁええか。

最年少なので、発表順番が二番目。14時集合、14時半開演で、14時40分には出番が終わり、あとは17時まで「おとなしく待たされる」という娘にとっての苦行。
私も、娘の歌は親の欲目か、単純接触効果か(この両者は同じものかもしれぬが)、娘の歌はいいもんだとおもうのだけど、それ以外の愚にもつかないモノを聞かされるのか・・・とかなり辛いバースデーになりそうな予感を抱えつつ、ビデオカメラを抱えつつ、参加。もっとも、小学生以上になると、うたではなく演奏(オリジナル曲)になり、小5ぐらいになるともうちょっとした演奏なので、意外と楽しく、音楽会に参加したような気分で楽しめました。

さて、娘の前にもう一人、同じクラスの同い年の子がいるのだが、そのこの発表が終わった後に、御両親がこっそり娘さんを呼んで、小さな花束をプレゼントした。それを持って座席に戻ったのだが、隣にいるわが娘は不安そうな顔をしている。演奏の準備中にこっそり呼んで聞くと、私の分はないのかという。あー、ないんだよなー、まぁおとなしく座ってなさい、というしかない。席に戻しても二人でゴソゴソ、すこし周りに迷惑になりそうな感じで話をしている。先生にたしなめられても、不満そうにぐったりしている。

途中で親の席にきて、隣で見ていたんだけど、まぁ緊張感がなくじっと待っていられない感じ。それは予定の範囲内だったが。

さて、長丁場が終わって。花を買ってやらないといかんなぁ、という気になった。
実は、これが終わったら二人でご褒美にケーキを買いに行こうか(誕生日ですし!)と思っていたのだが、そういうことなので、娘に「なぁ、花とケーキとどっちがいい?」と聞いてみた。すると、

「お花・・・」という。

おぉ、こいつも女やなぁ、と思いながら、では花屋へ!と思ったが、思いつかない。とりあえず百貨店ならあるだろうと、井筒屋に行くも花屋がない。幸い、井筒屋を出てすぐのところ、商店街の中に花屋があったので、子供用にと花束?を作ってもらった。伝え方が悪かったのか、束になってない数本の花だったが、本人は「きれーい、かわいー、いいにおいがするー」と喜んでいる。まぁええか。

ちなみに、花屋に行く途中、駐車場についた頃に「・・・やっぱりケーキ」という。
なるほど、それも女の子っぽいと思ったので、結局両方買いました。

ケーキは家で待つ妻と子供に。花は娘に。
娘とデートさせてもらって、周りの人を喜ばせられて、いい誕生日でした。



ねんれいが ひとつ あがった

本日誕生日。
お祝いのメッセージをくれた人。

  1. ゼミのメーリングリスト
  2. 母からのグリーティングメール
  3. Greeでの友人からのメッセージ
  4. Mixiでの友人からのメッセージ(アニバーサリー・アプリとやらで、四名から)
  5. コカ・コーラのサイトからのグリーティングメール

朝起きて気づいたのがこれだけ。後半は、PCでアクセスした順なので、順番に大きな意味はないですが。

ありがとうございます。
昔はオンラインがなかったので、誕生日といえど、知っている人がちょろっと言ってくれるだけだったんだが、最近はSNSなんかで「もうすぐあの人が誕生日ですよ」と教えてくれたりするので、なんというか、こういう事になる。

すごく不思議な感じだ。

ちなみに阪神大震災から15年らしい。ということは、大学一年生になってから15年。震災は一年生の後期定期試験初日だったからね。ということは、お酒を飲めるようになって15年。心理学を学ぶようになって15年。
15年かぁ・・・結構なモンだぞ。

一学徒としては、まだまだ、先は遠くにありそうですが。

34歳を楽しんでみたいと思います。

ps.その後もいろいろな方にメッセージを頂きました。ありがとうございました。



愛も根もない話

先週、自分への誕生日プレゼントのつもりでiPhoneに機種変更した。
かなり迷って、覚悟を決めての機種変更だった。普通の携帯電話でできることができなくなる、というデメリットを覚悟して、ひょっとしたら便利になるかも、という期待とのせめぎあい。発売から随分経って、ネットなどで評価を見比べることで、だいたい覚悟が決まってきたので変更した次第。

実際、この一週間を使ってどうかというと、思っていたような不便はそれほどなく、思っていなかった便利さがいろいろあったので、結論として私にはあっていた、と言えそうだ。

別にたいしたことがしたかったわけではない。PDAと携帯電話(通信機能)を一体化したかったのだ。
具体的には、スケジュールをGoogleカレンダーで管理しているので、それを持ち歩き、随時加筆修正できるようになりたかったのだ。

これについては、非常に簡単にできた。iPhoneのカレンダーがそもそもGoogleと同期できた、というだけのはなし。こうなると、あとはiPhone のもつおもしろ機能を楽しむだけである。

3GSで反応速度もバッチリだ。かな入力なども、三日しないうちになれた。WiFiとの併存/切り替えについても非常にスムーズ。出先でネットニュースを見たり、mixiにログインしたり、Twitterでつぶやいたり、ということも、驚くほど簡単にできた。

こういったインターフェイスの作り方にかんして、Appleという会社は天才的だとおもう。当たり前のようなことだが、基本的に操作法が直感的にデザインされている。だから、思ったとおりに機械が動く、という喜びを日々感じられている(M$ならこうはいかない。細かい設定をしたり、裏技を使う必要があったり・・・。実際X01HTではそれに耐えかねて数カ月で機種変した。)。

さて、事前の懸念のもう一つがメールに関すること。
これは実際使ってみるまで気付かなかったことがあるので、記録しておく。
すなわち、愛(i)と根(ne)の話である。

今まで、ケータイのメアドとして****@softbank.ne.jpというのがあった。
iPhoneを持つと、***@i.softbank.jpという新しいアドレスを使うことになる。
幸い、今までと同じ***部を取ることができた。
しかも、いつかのニュースで読んだのだが、以前のアドレスも利用できるように機能拡張がなされたとのこと。確かに、周囲にメアドの変更を伝えなくても問題なく使えているようだ(購入していきなりメールが入って驚いたほどだ)。

さて。今までのアドレスは「根」がついていたが、新しいのには「ne」がなく「愛」がある。愛と根の両方を入れると、そういうアドレスはありません、とメールがバウンスしてくる。
愛がある方が、iPhoneのメーラーとして利用できる。
根のある方は、MMSとして処理される。

機種変更の連絡をしていないから、今までの人からはほとんどMMSで送られてくるのだが、これって連絡したものかなぁ、と悩んでいます。TOとCCの判別なんかができてないので。

でもまぁ、これぐらいならいいか。

もしこのブログを見た人で、気になる人がいたら、私のアドレスは***@softbank.ne.jpの他に***@i.softbank.jpもあるのだ、とお察しください。



じゃあやってやる

上のエントリーをいろいろ掘っていくと、今の大学教員が感じていることがすべて書いてある。

結局のところ、近頃の学生は、「学び方は学んでいるが、考え方を学んでいない」と言うことであり、「考え方を学べばよい」というが、これは自己回帰的で、本当は「考え方の考え方」を持っていなければならない、ということ。これを持っていない人は、不運だ、というしかないのだろうか?

一段階の外堀なら、明示的に埋めてあげることができる。だから、やってみる。というか、やるしかないわ。




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