Kosugitti's BLOG

アンドロイドは正規分布の夢を見るか

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2011 / 6月

レポート採点祭り

中間レポートの採点。ほぼ一日かかったな。155人が履修しており,うち144人が提出している。提出率92%は初年時共通教育だから,ということが大きいように思う。
採点後,データ検証中。提出された分だけを対象に。性別,学年で有意差なし。交互作用なし。
俺の採点とTAの採点,積率相関係数で0.59はやや低め。ポリシリアル相関係数で0.64(TAは5段階評定のため),これぐらいならまあ良しってところかな。
後で評価が分かれた点について,TAとディスカッションできればいいかな。

さて,この課題は先日のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/kosugitti/20110617)にあった分なのですが,お題は「デカルト方法序説を読んで,次の観点からまとめなさい」というもの。
色々読ませてもらったけれども,まぁなかなか残念なことも多い。

まず,文章の頭一文字下げるという日本語作文の基本が出来てない人が多い!これは年々増えているように思うなぁ。
原稿用紙で書くときは下げるけど,Wordで書く場合はどうすればよいかわからない,ってことなんだろうか。でもわからなかったら普通下げる方(見た目が美しい方)になると思うんだけど。
その他,ですます調の統一が取れてない文章とか,13行にわたって「,」はあるけど「。」がないという大変読みにくい文章とか。どんどん減点対象にしています。

笑えるレベルなのも結構あって,レポートが表紙をいれて3ページしかないのに,表紙をめくってまずあるのが「目次」てどういうことだ。目次の下から本文が始まっているし,やたらと段落が多いので,「…1」「…1」「…2」「…2」「…2」ってなってる。アホらしいと思わないのだろうか。

レポートの最後に,「いいレポートでした」って書いてあるのもあった。よい課題が与えられたので勉強になりました,とかそういう意味か。自分で自分のレポートを評価した(=自薦)のか。わけわからん。

あと,A4で出すように,と言ってあったが,まさかレポートがパワポのスライドで出てくるとはおもわなかった!箇条書きをするのなら,確かにその方がわかりやすいかもな。パワポはだめ,って言及してなかったので,そこでは加点も原典もありません。ただ内容が残念だったので評価は低かったが(笑)

レポートの評価基準は,頭を使って書いているかどうか。これに尽きる。自分の言葉で実のある議論が出来ているかどうかなのだ。
デカルトはスゴイって書いてあるのは評価できない。どうスゴイのかがわからないから。同様に「彼の偉大な考え方は,いろいろ多方面に影響があったと思う。」というのも駄目。情報量ゼロビットだよ。こういう当たり障りのない表現をよく考察の中に入れられるなぁと思う。思考が絞り込めてない証拠ですよ。まぁ考察のところに「よくわかりませんでした」って書くヤツもいましたけどね。

「(デカルトの考え方は)後世に元気と勇気を与えた」,ってのは面白かった。ほんまかいな,と思いながら,学生の真摯な態度がかいま見れたからです。

ここからは愚痴みたいになるんだけど(今までも愚痴みたいでしたけど),最近の学生一般に対して持っている印象がある。
それは,自分の中身が空っぽなんじゃないか,という疑念だ。自分だけの言葉というのが見あたらないことが多いのだ。
学生諸君のなかに,代わりに入っているのは,「問い」である。わからなければ聞く,という脊髄反射。でも「自ら積極的に考え,学んでいくべきだ」という文言までネットから取ってきてどうするの。意味わかってないじゃないか。
相談していても,講義していて,質問を募っても(コメントペーパーを書かせても),本気でそれを問いたいのか?という質問が来ることも少なくない。

腹が立つことには,答えを返した後の反応。
一番嫌なのは「なるほど,完全にわかりました」というやつ。完全にわかるはずがない。こちらは色々考えて,その一部分を「こうではないだろうか」とのぞかせただけなのに,俺の意図を完全に理解するなんて,俺でも出来ることじゃない。言葉にならない,ぐにゅっとした感情・感覚・思考も含めての今の答えでしかないから。

次に嫌なのは「すみません,こんな質問して」みたいに謝罪するパターン。質問そのものは悪くないし,じゃんじゃんして欲しいのだけど,謝罪しなければならないような問い=愚問なら止めたがいい。時間を無駄にしたくないのです,私は。これ,大人になると「ごく初歩的な質問で失礼ですが...」という形式を取ることが多い。その問いが初歩的かどうかがわかるほど,全体像を把握しているのなら,そのうえごく初歩だというのなら,なおさらきくなよな。

聞くのではなく,問う,と言ってもらいたいが,問うのなら考えた上で問わなければならない。
何でも聞いたらええってもんじゃあないのだ。

聞いて,答えをもらって,右から左に情報を流し,大学なんてチョロいなぁと思う(あるいはそれでも大変だなぁと感じる)のは,明らかに人生の無駄である。

大学なんてこんなモンだ,と思っているヤツが,大学を「そんなもん」にしている。
これは結局,生まれによって将来が決まっているんだ,と考える差別主義的発想,あるいは社会階層・身分主義に陥っていることと同じだ。

たかだか教養の2単位じゃないか,と思っているヤツにとっては,2単位にもならないが,真剣に考えれば人生が変わるようなパラダイムシフトが待っているかもしれないよ。



楽しいキャンパスライフを

国立大学に多い真面目な学生って,入学当初は大学の先生は全て教授でえらい人だと思っている。職階の種類を教えるのはもちろん,まずこちらとしては,「教授だから」えらいんじゃないんだよ(最先端を走っているから偉いんだよ)、と教えなければならない。権威が邪魔して、その子の研究心が育たなくなると困るから。
ここで間違った反応をして、教授はえらくない、と短絡的になると大学不適応におちいる可能性がある。何のために大学に行ってるのかわかんねー,となるから。

徐々に尊敬すべきところとそうでないところの違いがわかり、大学人は学問バカなんだ、というところに至ればよし。
カリキュラムも専門的になり始める頃で,それにあわせて勉強してみるか、となるか、卒業できればなんでもいーや、となるかでキャンパスライフは分岐する。もちろん,こちらとしては「研究を楽しむ」ことを身につけて欲しいわけで。

要領の良い子は適当に単位をとっていく。悪い子はくそまじめに授業にでまくるか、あとあとの積み残しを根性で取り返そうとするかだ。後者は体に染み付いた不健康なパターンも手伝って、落伍しがち。そして一度落伍して奈落の底に落ちると、帰って来れなくなりがち。

ちなみに、要領が悪いから必死に、真面目に、という子も実は評価されないのが大学。出席しているから単位をくれ、とか言われても、毎回出席しててこの理解度か!と言われるのがオチ。大学が求めるのは、頭を使うクリエイター。ただ真面目なだけなのはそこにいるだけの土塊,肉塊ですよ。最近の大学は、それでもそういう真面目な子に対してなんとかする、という方針があるから、卒業できなくはない。でも、真面目さだけが売りなやつは、大学院まで進んじゃダメ。大学もくるべきじゃなかったことに気づくべき。

くるな、というのは、我慢してまで自分と違う評価次元の世界でくるより、他の道を探したほうが幸せだよ、ということ。積極的に排除はしないけど(したらアカハラだ),でも指導してくれないって文句を言うのってどうなの。

自分の力量と大学の先生の力量、方針とを照らし合わせて、仕方ねぇなぁ、研究とやらをして卒業させてもらうか。となるのがもっとも標準的なコースだろうな。

もちろん,はじめから大学に遊びに来ているタイプの学生もいる。私立は一般にそういう人が多いんじゃないかな。四年間の、社会人前の最後の楽園を満喫することが狙い。遊びと割り切って、一銭の得にもならない学問に興じてみるもよし、単位を取るゲームを最も効率良く終わらせるもよし。研究もキャンパスライフも、わかったふりができれば良い。そこまででなくても、学問は学問、人生は人生。そう割り切っている学生は大学生活も楽しいだろう。そういう学生も嫌いじゃない。それも大学の一つの機能だと思う。

要するに、私は、大学生活を楽しんで欲しいのだ。そして、大学生活において研究者が学生に接する時に見せて欲しい態度は、頑張りや真面目さではなく、「その人自身が考えている」という姿。教員に対する姿ではなく、自分に向き合っている姿。自分とは何者であるか、という問いに、予断をもって割り切っていくもよし、探り探り落としどころを見つけていくもよし。いずれにせよ、考える姿こそ美しい。そしてそれを評価する場所が、大学。

大学での評価は、その人の努力や学力ではなく、その人が作り上げた個性的な価値観にこそ与えられるべきもの。出席していれば良いとか、課題ができれば良いとかいう問題ではない。もちろん課題や努力など、目に見えるものを介して評価するのだから、「課題を一つも出さなくても価値観磨いたぜ、単位くれ」といわれても困る。

価値観を磨けばそれがいやが上にも出てきちゃうはず。自己の価値観を磨ききれば,TOIECでも共通教育でも専門教育でも,どんな試験でもそのきらめきが行間からにじみ出てくるもんなのだ。これを私の愚かしい宗教だと言われたらそれまでだが。

試験最終日にだけふらりと現れて、めくるめく才能をひけらかして去っていく。そんな学生には単位をさしあげたい。胸を張って、本学の卒業生であると吹聴してもらいたい。

ただただ、定期的に人ごみに出て来て、苦痛な時間を過ごし、その代償に単位や卒業証書をくれ、という奴にはなんもあげたくない。考えるのは嫌だけど、ちゃんとネットで調べてレポート書いたでしょ、って奴が大学生活楽しんでるとは思えない。

一生懸命頑張ります。努力します。そういう学生はもちろん好き。でも、その先にアウトプットの評価があることを,理解してもらわないと。大学の教員に,「好き」と情緒的に評価されても仕方ないんですよ。そりゃむしろセクハラ的でアウトだろうw

評価は自分の中にあり,それを大学人に認めさせてやる。それぐらいの自己中心性が,若い学生には欲しい。それが許されるのは,若いから。若気の至りという言葉があるうちに,至っておけよ。

指示されたことをちゃんとやってるのに評価されない、と嘆く人は、自分の頭がちゃんと機能しているか省みるべきだ。頭を使って考えてなかったら、評価しないよ。考えたけどわからないから教えて下さい、というのは考えてない証拠だよ。
そもそも指示や許可が欲しい,というヤツは思考のアウトソーシングが行き渡りすぎていて,もうお話にならない。

そして,これら学生に対する愚痴のような物は,全て大学教員にそのまま跳ね返ってくる。
すなわち,学生が面白くなくなったのは,大学人が社会の全体的な雰囲気にながされて,自らの方針を考えることなく社会に迎合してしまったから。むしろ,それより適応がウマイ若い学生に,嫉妬しているだけなのだ。

私のレポート課題がカンニング?されたのは,私が面白くなかったからなのだ。

私自身,講義を,キャンパスライフを,楽しめるようにもっと必死に生きねばならぬ。



京大カンニングさんが受講してました

先日,講義でレポート課題を出した。本を読んでそれを○○な観点からまとめよ,というものだが,同じ課題がYahoo!知恵袋で質問されていた。

デカルトが思考法を着想するに至ったプロセスとデカルトが到達した思考の原理、規… – Yahoo!知恵袋

デカルトの思考法を用いることで得られるものについて教えてください! – Yahoo!知恵袋

質問の細部はちょっと違うけど,投稿された日付から考えてまぁ間違いないだろう。

課題を出すときに,インターネットの情報を参考にするなとは言わないが,丸写ししてはいけないよ,と注意はした。かつてある大学でのレポート課題で,「いい文章かくじゃないか,ちょっと前後のつながりがおかしいけど・・・」と思ったものを,「まさかな」とググってみたら,まるっぽどこかの書評をパクっていたということがあった。それからというもの,評価の高低にかかわらず,全てのレポート(150人分ほど)から一文抜粋してググる,という作業をし,パクってないかの検証をするという無駄な作業が増えたのだ。

今回,質問への回答をもとに作ってるなぁと思われるレポートないか,と考えてみるが,これと同様で膨大な作業量を要することになろう。そして以前ほど私は暇人じゃないのである。
質問者のプロフィールをみると,エロくて若禿に悩んでいて名前にコンプレックスのある山大一年生,というところまでは推察できる。しかしまぁ,特定は無理だろう。なにより,特定の一人に絞りきれるほど精度の高い捜査ができそうにない(そしてそれほど私は暇人じゃないのである)。

さて,どうするか。

ひとつは,「仕方がないから全員ゼロ点にする」という対応である。でもこれは,そうされたと知ったら,真面目にやっている人から文句が出るだろうね。俺が恨まれることもあろう。でも,俺もそうしたくてそうするわけではないのであるから,なんか恨まれ損な気がする。
で,「仕方がないから全員ゼロ点にするぞ。やったヤツは名乗り出ろ」という対応も考えた。そうすると,本人が周りのプレッシャーに耐えかねて自首する,あるいは周りが自首を勧める,告発するなどの力が働いて,特定できる可能性がある。まぁしかし,知恵袋のプロフィールをみると,春からどんどん投稿しているみたいなので,多分寂しいヤツなんだろうな。ぼっち飯を食っているようなヤツかもしれぬ。だとすると,周囲からのプレッシャーがかかりすぎるorまったく意に介されない,ということにもなって,結局全員ゼロ点となって,振り出しに戻るかも。

結局この手のいたずら,些細な悪意,ある人間のつまらぬ心の弱さに,こちらの・みんなの気分を害しているわけである。
罪を憎んで人を憎まずともいうし,まぁこちらが我慢するほかないのかな,という気分。

ちなみにここでは書けないが,ある解決策を考えついてはいるので,それを実行してみるつもりではある。
ほかに何か良い方法がないか,Yahoo!知恵袋で聞いてみようかしら。



Abelsonの態度等高線マップでAKBの勢力図を描いてみる。

先日のエントリ(AKB勢力図を描いてみました)でAKBの勢力図を描いてみたが,あれはクリギングという地球統計学の技法を使ったもの。それがそのままマーケティングだとか,勢力分布の理解に利用できる保障はどこにもない。

ところで,社会心理学の態度研究の系譜の中に,Abelson,R.Pという人がいる。この人は,Lewinの場の理論に影響を受け,電磁場モデルの態度版とでもいうべき,態度の等高線マップモデルというのを提案している*1
これまた,出典こそ社会心理学ではあるが,社会的態度や心理学研究に予測的妥当性や新しい知見をもたらすものかどうか,ということについてはまだ不明。まぁ研究例が少ないからである。Abelsonのこのモデルは,なぜか態度研究業界では忘れ去られた存在になっている。

理由の一つは,描画方法がなかったからかと。アプリケーションがあるわけでもないし。
手前味噌ながら,このAbelsonモデルで論文を書いているのだけど*2,そのときは自作のプログラムでX,Y座標各点の高さZを算出するコードを描いて,それをgnuplotで読ませて描いていた。

さて。既に,統計ソフトプラットフォームはRで統一されていると言っても過言ではないが,このAbelsonモデルをRで描けないかなぁ,ということで関数を書いてみました。いやぁ,ベクトル演算ができるので,書くのがとっても楽!描画についてもcontour関数やimage関数をそのままつかえるので,苦労する必要がない。
X-Y軸とZ軸のデータセットをリストとして持つgeodataオブジェクトにしておくと,先のクリギングとの対応も簡単に出来ちゃう。

ということで,Abelsonモデルの方でAKB勢力図を書いてみました。

サンプルコードはこちら。最初の距離データについては提供できませんのであしからず。

f:id:kosugitti:20110606140122j:image:right

とまぁこんな感じ。解釈のしやすさという意味では,クリギングよりこちらの方がよいかも知れない。

いずれにせよ,AbelsonモデルvsKrigモデル,という対比をして,どちらが態度研究に向いているか,という比較が出来るようになったという点は進歩かなぁ。これでしばらく遊べそうです。

プログラムはこちらに置いておきましたので,良かったら使ってみてください。

*1:Abelson,R.P. (1954-55) A Technique and a Model for Multi-Dimensional Attitude Scaling,Public Opinion Quarterly,Winter,405-148.

*2:小杉考司・藤原武弘(2004).等高線マッピングによる態度布置モデル,行動計量学,31(1),17-24.



世界は否定によって再帰し、成立する。

 ヒューリスティック(直観的情報処理)とは、繰り返しパターン化された行為・思考の自動化だ(先天的なもの、後天的なものの別はあるにせよ)。
 「意識」「意図」「こころ」「自己」(並びに、自己にかんする心理学的用語「自我」「自尊心」「自己評価」「自己愛」)は、そのようなものが指し示されたときにそれがあると仮定して反応するように、と繰り返し求められるため自動化されたヒューリスティック処理である。すくなくとも、それが「何か」と問われて、答えることはできても実体を指し示すことができないのであれば、この仮説を否定することはできない。ジュリアン・ジェインズは、自動化される前、頭の中で神の声がささやいたという。それがジーンやミームで淘汰されつつ伝達され、今の形になったというのは妥当な考えの一つであろう。

 学生に、「諸君は意識があるか」ときけば、眠ったり死んだりしているのでなければ「ある」と答えるだろう。なぜなら彼らは眠っても死んでもいないのだから。
 学生に、「諸君は意図があるか」ときけば、普通「ある」と答えるだろう。講義が嫌だ、面倒だ、答えたくない、ということがあっても、なんらかの意図があるということは否定できないだろうから。尤も、意図の意味がわからないと言われるかもしれないが。
 学生に、「諸君はこころがあるか」ときけば、あるとこたえるだろうか?しっかり考えたことがないんだけど、みんながあるといってるんだからあるんじゃないのとか、心理学っていう講義があるからあるんじゃないの、というこたえが返ってきそうだ。しかし、あります!と自信を持っている人間は、ずいぶん少なくなっているように思う。学校ではこころを前面に押し出しておしえるが、だからこそ、「なんかそういうのがあるらしいぞ」と逆に確信できなくなるのかもしれない。
 学生に、「諸君は自己があるか」ときけば、いやがられるのではないだろうか。就職活動場面などでは、それがもとめられるのだが、求められることがわかっているのでまだ自己を確定したくない。あるいは、周りの目を気にして、あると胸を張れるほどのものがない、といいそうだ。かつて、学生運動が盛んだった頃は、学生が権威に対して、あるいは学生同士で自己批判をしろと責めたように、確実にあったはずの「自己」が、今はさほど自明ではない。

 意識、意図は比較的確度が高く、心や自己が比較的確度が低くなるとすれば、その理由は「否定」をはっきり認識できるかどうかである。意識、意図がない状態のヒトは想像できる。眠っているかのようだ、と言えばすぐにわかるからだ。
 心がない状態、自己がない状態のヒトはそれにくらべてより想像しにくい。自閉症などの症例を思い出せるかどうか、全くキャラクターが把握できない支離滅裂なヒト、というのが身近にいないので想像しにくいからだ。なくはないけれども、とか、あるにはこしたことがないとか、なくてもいいけどちょっとはあったほうが、といったところか。

これをより広げてみよう。
諸君は親友がいるか。
諸君は心休まる仲間集団がいるか。
諸君は社会があるとおもうか。
諸君は世界があるとおもうか。

 いずれも、否定の確度の問題であり、徐々にその確度が怪しくなってくる。
 社会心理学は、今の学生にとっては社会と心という、想像できないほど抽象的なものを扱っているように思われるに違いない。
 総合行動科学のような、目に見えるものだけを俎上にのせようというのは、こういう状況では非常に魅力的であることは間違いない。

 社会の存在は、その規範によって明確な逸脱を否定するところからうかがえる。
 ここで、規範による否定のルールは四種類ある(Heidt)。あるいはさらに上位の二つ(ジェイコブス)に分割できる。これはルーマンの四つのメディア、清水・小杉の四つのソシオロジックと対応する。清水・小杉は、対人葛藤場面からこの考えを導出した。プレイヤーAとBの葛藤における解決を論じるからだ。ルーマンのメディアは、ダブルコンティンジェンシーという二者の場面からの議論だ。市場と統治の論理は、交換することと取ることという二つの原始的相互作用を基盤にしている。

 しかし、Heidetのルールには五つ目がある。五つ目のpurityはこの社会のルールに属さない。なぜなら、これは相互作用に依存しないからだ。いわば、自分が自分に対する判断、再帰的な判断としての善し悪しである。

 二者関係を結びつけるのにひつようなもの、それは論理演算でいう、AND,OR,NOTの三つである。論理の世界はこの演算子で全ての論理空間が説明される。前二つは、二つの命題、AとBを用いて、 A and B、A or Bの判断である。最後の一つは、一つの命題Aだけを用いた、not Aである。
 この、最後の否定の論理演算がなければ、全体は成立しない。

 明示的に否定することができなければ、自己や社会は成立しない。

 免疫系は、否定によって自己を規定する。決して肯定によってではない。

 藤澤は、側抑制による境界の強調、マッハ効果の重要性を指摘する。マッハ効果によって強調された境界が円環になったとき、システムが完成する。抑制= 否定が再帰し、世界が成立するのである。

 いくたびかの機能のパターン化、パターンのパターン化が生じたとき、機能が再帰的にたたみ込まれる。機能が自動処理のレベルに変質する。藤澤はこれを機能の重畳性という言葉で表現する。安定したシステムは自己を認識する。それは否定による。否定によって再帰的に自己が形成されれば、つまり自己が「あれ」ば、「ある」を前提に、肯定的なシステムが回り始める(ただし、パターンが生じるということが、同時にパターンの否定が生じることを意味しない。否定がパターンを生むが、形成されたパターンを否定するのは異なるレベルの話であるから。ラッセル。)。

 統計学は、再帰し始めた。理想とする空間に近似させて是非を問う、ネイマン・ピアソン型の論理より、ベイズ統計とその応用技術であるマルコフ連鎖モンテカルロ法が主流になり始めた。仮定に従う分布を限られたサンプルの中から反復生成し、これを探していた分布だと呼ぶようになった。仮定した分布に従わない要素を否定し、自己の目的を見いだそうとしている。門戸を広げるのでなく、限られた世界を否定して自己を発見した。カントに習って言えば、分布は認識に従う、のである。

 教育は、再帰し始めた。よき市民とはなにかを定義するため、よき市民に必要な最低限のマナーを教えようとする教育プログラムができた(SEL)。よき大学生とはなにかを定義するため、よき大学生に必要な最低限の思考法を教えようとする教育プログラムができた(批判的思考)。これは、その最低限にも満たない市民や学生を否定し、世界を成立させようとする考え方だ。臨床心理学・異文化心理学の分野では、心の理論やEQ(Emotional Intelligence)が注目されている。感情すら、明文化された最低限のマナーに従わなければならない時代がやってくる。

 理想的な世界を唱え、目的にむかって定義をすることは、実証科学的ではない。理想は操作可能な仮説に置き換えられないからだ。
 明らかな間違いを否定し、間違いを正すように細かく操作を積み重ねることは、具体的で実践的な営みだ。しかし、そこから理想は生まれない。

 何が間違いなのかもわかっていない学生には、正解を教えるべきだろうか。間違いを教えるべきだろうか。
 まず、諸君にも心はあるだろう、というコンセンサスを得るところから始めるべきだろうか。
 諸君に意識はなくはないだろう、とコンセンサスを得るところからはじめるべきだろうか。
 すでに「集団があります」というのは通じない台詞であり、「集団研究がありました」と言うしかないのである。

 社会を仮定して、集団を前提して、皆でそれを信じるように集団力学を展開する。これは科学ではないのだろうか。

 ヴィトゲンシュタインは言葉と図の違いを「否定の違い」にあるとした。言葉は明示的に否定できる。図は否定できない。絵画に墨で大きくバッテンをかいて も、それが新たな図になるからだ。図では世界が成立しない。
 逆に、ひとたび言葉によって世界が成立すれば、それは名義尺度の遡上に乗ったことであり、数量化の技術を使うことによって一気に比率尺度まで展開、方程式 による世界の完成である。そうであれば当然、方程式のお作法と、解の公式、近似的アルゴリズムの話になる。

 はじめに、言葉ありき。言葉がある前は混沌でしかないのであれば、一学徒として解の方程式を探すだけの旅であることを受け止めなければならないのか。

 それでも僕は、綺麗な絵を見て、ただ綺麗だなぁと感じ入っていたいのである。




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