Kosugitti's BLOG

アンドロイドは正規分布の夢を見るか

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2013 / 7月

線形か?線形なのか?

昨日のニュースで,文科省が「人間力判断する入試を」とか言い出してうんざりしているんだけど,これにちょっと違う方向からツッコミを入れてみたいと思う。

人間力とは何か,というのが多分真っ先に攻撃されるポイントになるんだろうけど,そうなると鳥取大学みたいに,「本学では、「人間力」を、「知力」、「実践力」、「気力」、「体力」及び「コミュニケーション力」の5つの構成要素から成り立つ総合的かつ人格的能力として定義する。」といった公式回答が出てくることになるわけです。

出だし(人間力)が既におかしいのに,それにまじめに答えちゃってるんだからもうギャグだと思った方がいいんだけど,一応「心理教育測定法」という目に見えないものをどうやって測るかという授業を担当しているメトリシャンとしては,きちんと問題点を指摘しておこうかな,と思っている。

第一に,人間力,知力,実践力,気力,体力,コミュ力・・・それぞれの目に見えないものを「力」と称するのは,構成概念的に妥当かどうか,ということが問題。俗にいう「女子力」というのは,下手したら(しなくても?)セクハラや性差別につながるような話なのに,「人間力」「コミュ力」というのが,その妥当性の検討を抜きにスルーされているのが不思議だわ。

とまあ妥当性の問題が一番大きいんだけど,次に気になるのは最後のところだよね。「総合的かつ人間的能力として定義する」の件ですが,前半の「総合的」というところ,をよく考えてほしいのです。

総合的,包括的,統合的・・・他にもいろいろな表現があるでしょうが,これは基本的にぼかし表現であって,「〜など」と言っているようなもの。成績評価のところでも,〜や〜などを総合的に評価して・・・ということが多いけど,それは何かということをしっかり考えてもらいたい。

私自身,公的な文書の素案を書くときに総合的って書きますけど,これははっきりいって「わかってません」とか「逃げています」ということを誤摩化して書いているんですよ。それぐらいのことはわかってます&わかられてますよね,当然ね?

ただ,私は成績評価のときに総合的に判断する,というのは嫌だし学生に対して誠実ではないと思うので,テストの点数で評価し,出席点や努力点,理解の程度や態度は0です,と断言しています。

総合的,という言葉を他の人が使っていると,
「線形か?線形なのか?」
と聞いてやりたくなります。

実際,複数の採点を総合する,というときはせいぜい合計,平均点を使っているわけで,その場合の計算は,
score=X_1+X_2+X_3+...+X_n
という線形結合になっている。平均はこれを割っているだけだから,同じことね。
いやいや,そんな簡単なもんじゃないよ,と。大学でやる人間力(score)ってのは知力(X1)がちょっと高く評価されて,体力(X4)はちょっと低くても良くて・・・,といった傾斜配分をするというのであれば,
score=w_1X_1+w_2X_2+w_3X_3+...+w_nX_n
ということになっていて,これも結局線形結合になっていますね。一般に,この重みwは何の制限もかけなかったらどんどん数字が大きくなっていっちゃうから,
\sum_{i=1}^n w_i = 1.0
という制限をかけて,割合の問題にしますけど。

もしそうでない場合。つまり,知力,実践力,等々はあるんだけど,それだけじゃなく,それ以外にあるから総合的に,なんだ!とか言い出すのであれば,
score=w_1X_1+w_2X_2+w_3X_3+...+w_nX_n+w_e E
これでいいでしょうか。だって知力,実践力,等々は測っているし,それらは人間力の一部なんだもんですから,それ以外の部分(E)をつけてやればいいわけでしょ。

問題は,この時の相対的な重みで,それ以外の部分,の割合が30%ぐらいであれば,人間力ってのは上の五つの力で70%を占めているんだから,そこをのばしていきましょう,でいいんですよ?それ以外の部分がもし60%もありますよ,ということであれば,大学としてはそっちをのばすべきで,知力や実践力を伸ばしている暇はないよねえ!

ちなみにこのモデルは,因子分析モデルと基本的に同じ形をしていて,因子分析ではこのその他の部分(E)を誤差因子,と呼ぶのです。能力を複数の因子に分解し,テストで測定している部分(共通因子)には命名できるんだけど,できない部分は誤差。で,この誤差というのは,共通するところと無相関である,というのが前提。だって,相関する=関係するのであれば,共通因子(この話で言うと他の力の部分)に取り込まれるべきで,知力や実践力「以外の」「その他の」力,というのが「総合的の意味」なのであれば,それは知力や実践力とは何の関係もない力な訳です。そしてそういう何の関係もない力,というのを教育によって育てることができるのか?そこの重みが大きすぎたりしてないか?というのが問題になります。

力(因子)の正体がはっきりしているからこそ,そこをどのように教育すれば,どのような変化が望めるかというのがはっきりしてくるのであって,伸ばせるところは伸ばすけれども,伸ばしようのないところが結構な重みでありますよ,というのは教育できないよ,といっていることに等しい。もしそういう謎の総合的な判断,というのが入ってくるのであれば,行き着くところはランダム(さいころを振って加点する)か,属人的判断(かわいいから加点する,生まれがいいから加点する)になってくるのではないかな。危険な考え方ですよ。

学問というのは思想・信条・人種・性別などの区別に関わらず門戸が開かれていて,何を教えてどのように測定するかというのがはっきりしており,測定値が上がることが能力が上がることであって,目に見えなうプラスαの部分で判断してはいけないのです。

ただ,高等教育のような専門性の高い話になってくると,専門家,その人でないと判断できないことというのが出てくる。なので,大学での評価はその人に任せる,というスタイルをとる。教員免許とか持っている必要なくて,ただの有名人でも,その大学がこの人の基準でもってOKとしたらそれでいい(というしかないじゃない),ということです。つまり,プラスαの部分を評定者個人内の一貫性(評定者の判断次元)としてある程度fixする(誤差因子をさらに独自性と真の誤差にわけるようなもの)ことができるようになります。

さっきと言ってることと違うじゃないか,教員個人の好みで点数がブレブレになったりするんじゃないか,あの教員はわがままに採点しているんじゃないか,という反論が出てきそうですが,基本的に専門家というのは専門家集団のなかでピアレビューをうけて,こいつはちゃんとしているな,という専門家集団による緩い保障がされています。大学の中でも,一人の教員が卒業までの全ての単位(124単位)を出すわけではなく,せいぜい4〜10単位ぐらいでしょう。大学全体の教員プールの中でその独自性がなるべく影響しないようにデザインされているのです。もちろん,教員自身も自分の直感だけで判断しようと思っている人ばかりじゃなくて,客観的に測る部分(説明可能な部分)+自分の判断,で評価しようとしている人が普通。

だらだらと書いてきましたが,総合的に,というのが下位概念の線形結合である,というのであればまだわかるのです。下位概念で説明できる割合がどうなっているか,という重み付けまでしっかり計算されていればいいのです。
そうではなくて,それ以外の部分が半分以上の説明率を持っているとか,「そういう線形結合じゃなくって・・・もっとこう!総合的に!全体的に!」という説明ができないのであれば,じゃあどういうモデルなのかを表現すべきです。

線形結合ではない,複雑な関数でscore=f(X_1,X_2,X_3,X_n)な何かだ!というのであれば,果たしてそれは理解(解釈)できるものなのでしょうか?教育できるものなのでしょうか?知力と体力があるレベルに達すると急激に人間力は落ちます!とか,知力レベルが〜で,実践力レベルが〜で,気力レベルが〜の時はコミュ力が爆発的にのびるけど人間力は逆になくなるんです,とかいった現象が生じてしまったら,怖くてものを教えてられないですよw

我々が知ったり,測ったり,予測したり,制御したりできるのは,基本的に線形結合しているところであって,その説明率が高くなくとも,少なくとも学力については積み重ねられる,教育効果がある,ということで教育業界は成立しているのであって,制御もできない,予測もできない,いわんや理解も計測もできないものを社会システムの中に組み込むのは全くまぬけなことなのです。



発達課題としての通貨制度

夏休みに入って,子どもが家の中で遊んでいたりする。
先日,夕食後に子どもたちがおとなしく隣室でキャッキャしてるから,何かなあと思ったら,段ボールを切り刻んで「券」を発券しているのだ。

子供の券

8歳の姉は「何でもしてあげる券」「お料理券」「サラダ券」などを発券し,これを使うと指示通りに動いてくれるらしい。もっともお料理やサラダを作ってもらいたい,というときはこちらもサポートする必要があるので,全く便利な券だというわけではない。自分の欲求を券という形に変えているだけなのだ。何でもしてあげる券は,お布団の上げ下げに使わせてもらっているが。

4歳の弟はもっと単純である。中には「ボーリング券」というのがあり,これはどういうもの?と聞くと「これをつかうとね,てっちゃんがね,ボーリングしてあげるのよ」という。別にしてほしくないのだが。しかし,「ね,いつ使うの?いつ使うの?明日?明後日?」と目を輝かせて聞くので(かわいい),翌日使った(?)のだけど。

また,券を使った後どうするか,ということは全く考えていないようで,回収されるわけでもないから何度でも使えてしまうようだ。ボーリング券は「よし,つかうぞ,はいてっちゃン」と渡したら「これはどうしたらいいの?」と逆に聞かれたので,「うーん,棄てたらいいとおもうよ」と答えておきましたが。

さてさて,興味深いのは,どうしてこういうことをするのか,ということだ。
子どもにとっては,割と普遍的な行為だと思われる。私も子どもの頃,肩たたき券を発券したような気がする。もっともそれは,お誕生日プレゼントかなにかを渡そうにも資金力がなくて,労働力の対価として,という意味合いだったように記憶しているが。

幼稚園や小学校などで,そういう「券」を使った遊びを教える=模倣学習かな,と思う。
しかし,普遍的な現象であれば,ただの模倣ではなくて,人間の発達段階の中に「貨幣制度をみにつける」という課題がふくまれているのだろうか。等価交換のルール,あるいは何か(紙幣や券)を媒介にして「交換する」ということを学習する段階が,ア・プリオリに子どもに含まれているのだとしたら,面白い。

自分の欲求を口に出せないから,恥ずかしいから,紙に書いて渡すというのは違うと思う。なぜなら,券を使う時は「えー,しかたないなあ」みたいな振りをするからだ。それも含めて社会関係の学習なのか?

交換と強奪が他者との交流の基本ルールである。幼いうちからそれを身につけるのは,悪いことではない。

子どもは面白いものだな。



体調管理

先月末も一回なったんだけど,体調コントロールに失敗している。
ワンシーズンに二回もなるのは始めてだと思う(大人になってからは)。

いずれも,クーラーをかけているところと,外気との行き来のせいで,適切な温度が分からなくなっているのが原因だと思われる。

先月はクーラーを書け始めた頃。
今月は,クーラーをかけ続けていて,それでのどがやられたと思っていたんだけど,昨日なんか熱があったもんなあ。不思議なことです。

身体がだるいと思うので,熱中症かと思うので,水を飲んだりクーラーをかけたりする。
そしたら冷えすぎて寒くなったりしてね。で,先日はねながら咳をしていたそうなんですよ(妻談)。

ちょうど花粉注射の日だったので,のども見てもらったら,炎症を起こしているとのこと。
熱はないですよね,と聞かれたので「はい,ありません」と答えたんだけど,帰宅して熱を測ると37.9とちょっとしたもんですよ。

早寝して,今朝測ったら熱は下がっているし,まあ元気な気もするんだけど。

クーラーの温度も,子どもがいたり,暑いところから帰ってきたりすると低くしたいし,フィルター掃除をしてないせいか?さげてもさげても暑く感じるし。で,26度設定でかけっ放して寝たら寒いし,25度設定で夜中に切れるようにタイマーをかけると切れる度に目が覚めるし。

結局,昨日は27度でかけつづけて寝たんだけど,やっぱりそれぐらいが適温なのかなあ,よく眠れました。

外気やクーラーに負けるなんて,俺の身体もだんだんなまってきたなあ・・・(´Д` )



高等教育についての私見

本学はこの春から,共通教育(いわゆる教養,パンキョー)が大きく変わった。

この新しい共通教育制度は,学生をクラス編制し,クォーター制にすることが特徴。
考えられる長所としては,

  1. 共通教育において統一的な内容を伝えることができる
  2. 受講者数を均一化することで,生徒数が少ないクラスを担当する教員を減らすことで(主に非常勤講師の)人件費削減
  3. クラス編制により,高校の延長のような感覚で修学できるので学生が友人を作りやすいなど,大学生かつ満足度の上昇が見込める,

ということがあったのだろうと考えている(大きく外してはいないはず)。
大学執行部のウェイト的には,二番目が最大の理由じゃないかと邪推はしているが。

さて,長所があれば短所があります。短所について列記すると

  • 学生から選択の自由を奪い,自主性が育つ機会を剥奪した
  • 授業開設期間が半減し,教育の質と量が半分以下になった
  • 大学生から「孤独であること」の自由さを奪い,中等教育で生じるいじめなどの問題を高等教育にも導入した

というものが考えられます。

なんでこんな問題を生むような改革をしたのか,と考えると,おそらくいずれも高等教育に対する見識の違いなんだよね。

実は利点の1.は,同じ科目名をつけていれば同じ情報を与えたことになり,同じように成長するという,まるで学生を工業製品か農作物のように捉えて考えていることの現れ。2.は経済原理を研究・教育部門に持ち込むことがどのような弊害を生むか,ということについての無理解の現れ。3.は,高校までの中等教育,すなわち正しい答えに対して最適な解決技術を身につけるという考え方の押しつけであり,本来,現象に対する問いをたてる,ある答えが正しいか正しくないかを考える力を育むための高等教育機関が取るべき態度ではないと思うんだよな。

特に学校の中で起きているいじめなどの問題は,「正しい人間関係」を築くために「人間関係を作る技術」を育てる,その技術が身に付いていない人間は「そいつの努力不足である」(個人への帰属),という考え方がまずいんだと思うわけです。

私は大学に入って,自由であること,クリエイティブでいられることの喜びを満喫したので特にそう思うんだけど,正しい人間関係とは何かと考えるとか,努力で超えられないものがあるとか,だからといって個人の主体性は尊重され,排斥されることはない,という感覚を得られること,が大学のよいところだと信じるものです。

高校生だって,大学に行けば自由になれる!と思うから努力するのにさ。
大学でも中等教育するのなら,意味ないぜ。

と思うのだけど,はてさて,執行部は何を考えて実行し,このコストとメリットの比率をどのように見積もっているのかなあ。



お金と関係ない世界を大事にしたい

この本を読んで,レビューを書いたのだけど。

国家,芸術,経済,レイヤー,態度などの用語が不用意に出てくる。そして時には正確でない用法がみられる。そういう意味で,語弊を招きやすい文章なのかもしれない。

しかし,文章が伝えてくる内容は大変面白い。一言でいうと資本主義経済の否定なので,左翼運動と似た空気を感じるところがある。が,やっていることは常識的ではないが合理的な話であり,社会の側が歪んでいるように感じる人間のレジスタンス運動だ。

私の言葉でいうならば,頭でっかちになっていきにくくなった現代日本社会に対して,もう少し生物的レベル,感覚的レベルで行きていくことを考えよう,という話なのである。

この手の話をする人は(もう一人知っているが),生きていく様態が先にある。まず生きている,という感覚が先にある。だから力強く感じるし,もし現代社会の枠組みから排斥されることがあるようなら,私にできる補助をしたいと思う。

現代社会の中に埋め込まれた側から,そちらに適応した人間であっても,そうでない世界のありよう,可能性を示してくれるパイオニアには尊敬の念を禁じ得ない。

資本主義社会がずいぶんと進んできて,それに取り囲まれるようになると(それはそれは力強い包容力ですから),「お金が大事」だという価値観が全面的に出てくる。

けれど,お金以外の価値観で生きている人,成立している社会もあるよな,とぼんやり思う。

例えばスポーツの世界だ。お金を払ってもホームランが打てるわけでもなし,お金を払ったらシュートが決まるわけでなし,お金を払ったら四回転ジャンプができるわけでもない。

例えばお笑いの世界だ。お金を払ったら面白いことが言えるようになるわけではない。

例えば大学の世界だ。お金を払ったら新しい発見ができるわけでもない。

もちろん,八百長試合を組んでホームランが出るようにすることはできることもあるだろう。お金を払って笑ってもらうことができることもあるだろう。お金を払って業績を稼ぐことができることもあるだろう。

でも基本的に,もっとヒットを打ちたい,もっと笑わせたい,もっと面白い発見がしたい,という人にとって,お金を使ったショートカット?は全然望むべき方向性ではないから,そんなことしても幸せになれないよね。

そういう人たちは当たり前のようにそれが分かっているから,自分の生き様を媒介にして生きているし,それこそこの本が言うところの態度経済をまわしているんだよね。

そしてそれは,特殊な人ではないということだ。誰だって,お金で恋人や友人や家族を買いたいわけじゃないだろう。

お金で片がつく問題はお金で片を付けた方がいいし,そのためにある程度お金を持っていることは大事なんだけど,そのために目的を間違えては意味がない。

ゴルゴ13の作者,さいとうたかを先生が,「事故にあってもこっちに非がなければ,加害者が賠償してくれるからいいよね」というやつは安全を何だと思っているんだ!といっていたけど,まさにその通りでさ。

もっとお金と関係ない価値を高めていきたいと思うし,世の中におけるお金の尊さレベルがもう少し下がるべきだと思うし,お金とは違う価値観で動いている世界にお金の話を持ち込んでほしくない,と思うわけです。




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