Kosugitti's BLOG

アンドロイドは正規分布の夢を見るか

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2013 / 10月

場面想定法はもうやめませんか

論文の中に,場面想定法ってでてくるとそれだけで萎える。

要するに「こういう状況だったら,あなたはどうする?」というのを聞いて回答を求める手法(?)なわけだけど,これをデータとして扱う心理学というのは,どうにも根拠が貧相な気がするのです。

そもそも社会心理学は行動の科学を標榜していたけど,行動がでてくるのを待っているのでは研究が進まないので,「態度」という専門用語を作り出した。これは行動の準備状態とかいって,「〜するつもり」のような意図,事前にもっている情報・感情のことだけども,それでも実際行動するかどうかとは違うわけです。態度は社会心理学にとって重要な研究ツールなのだ!といっても社会心理学者はちょっと冷や汗をかいてるぐらいがちょうど良かった。

ところが,態度測定はそもそも想定された心の状態だったので,それを押し進めて状況まで想定させた上で反応を求めることを考えだした。これが場面想定法。「これこれこのような状況を想定してみてください,その上で,あなたならどうしますか。」って,想定させる状況が込み入ってくるほど,何について答えさせているのかが変わってくるのである。

 

「あなたは大学一年生で,恋人とのデートの約束をしている日に,先輩から呼び出されました」とかいった状況を教示されて,反応を見るわけだけど,例えば俺(37歳,サラリーマソ)は大学一年生じゃないし,大学一年生のときに恋人がいなかったし,呼び出してくるような先輩もいなかったわけで,そういう状況を想定しろと言われたら,そういう状況にいたキャラクターを想定する。つまり,俺の態度ではなく,想定された架空のキャラクターの態度を回答することになるわけです。

回答者の多くがそういう想定されたキャラクターの態度を回答していたとすると,得られた回答は広い意味でのステレオタイプ的態度であって,実際の行動でも何でもない。社会心理学は常々大学生心理学だと揶揄されているが,それ以上にファンタジー心理学になってしまってるよ。

恋人がいない人に,「数年の付き合いで同棲している彼女がいると想定して答えろ」といっても,正しく想定できていると思う?

大学生に「株で取引して・・・」とか「転職したときに・・・」とか想定させて妥当性があると思う?

 

多分この批判は前からされている古い話だと思うんだけど,最近,どうにもこの「想定させる状況」が行き過ぎているような気がして,「ファンタジー心理学,ステレオタイプ研究になっちゃってるかも」という自覚がない研究者がいるんじゃないか,とも思うわけです。

それでもいい,と思ってやっているのならいいんだけど,自覚がないとなると,それは不自由で恥ずかしいことだよ。

 

ひとつ思うのは,この方法に「場面想定法」というネーミングがついて,このネーミングが一定の支持を得て,定着したことの問題なのです。俺が大学院生だったころは場面想定法って名前,そんなにメジャーじゃなかったよ。むしろそんなことしてどうするんだ,という風潮の方が強かったように思うけど。最近研究の道に入ってきて,場面想定法で,という手法名を聞いて「そういうのがあるのだ」と疑いなく受け入れてしまうことの弊害がある。昔はちょっとアヤシイ手法だと言われていたんだよ,計量経済学や計量社会学の人からみたらなんて言うだろうね?という反省なしに,「だってみんなやってるんだもん!これでいいって教わったもん!」と逆ギレされるのではないかと思っているのです。

研究手法として名前がつくのであれば,そこに正しくて新しくて妥当な技術が含まれていなければ(それまでの技術とどこが違うのか,が明らかでなければ),オッカムの剃刀になってしまうよ,ということを誰か言わないといけないんじゃないか,と思ってこの記事かきました。

 

この「新しい研究名がついて何となくそれっぽくなっただけなんじゃないの」,という懸念を(俺が)抱いている例として,「(重回帰分析の繰り返しとしての)パス解析」,「スノーボール・サンプリング」,「グラウンデッド・セオリー・アプローチ」,「PAC分析」をあげておきます。多分他にもあるんだろうな。



機種変更のミクロ・マクロダイナミクス

妻がiPhoneに機種変更。
所謂ガラケーからスマホに。

まあ機種変更の手続きのややこしさ,スマホの慣れなさみたいなのは分かるんだけど,まさか窓口で「ではこちらにAppleIDとパスワードを書いてください」と言われるとは思わなかった。たしかauでそういうサービス(?)をやって問題になっていたと思うのだけど,ソフトバンクでも(そしてプレミアムショップでも)そういうデリカシーのないことをしてるのか,と。

もちろん,初めての人にとっては難しいことなんだろうけど,それを変わりにやってあげましょう=IDとパスを教えろ,ではないと思うんだよね。大変だけど,それはお客様でやってもらわないと困りますよ,と教育することも愛だろう。
それをサービスが悪い,というのは客側の品格の問題ですよ。
よしんば,そういうニーズとサービスが合致したとしても(鶏と卵でどっちが先ということもなかろうから),それを般化させたらダメだ。教育と学習のチャンスを奪ってるようなもんじゃないか。

驚いたのは乗り換え割,という割引サービスで,これは学生だと二年間有効らしいんだけど,お店の人が「お子様の名前で申請すれば学生割が対応できます」という。定義上,学生=大学生だし,うちの子はまだ児童生徒にもなってない幼稚園児だから,「え,2歳ですよ」といったら,それでもかまわないのだと言う。
まあ1年間の割引サービスが2年になるというのだから,そうしてもらったけど,これもなんだか気持ち悪い。

同様のこととして,最初からついているサービスがいくつかあって,でも数週間〜1ヶ月ぐらいは無料だけどそのあと課金されるというものだから,明日にでも解約してくださいねー,というやつ。アレも気持ち悪い。
当たり前のことだけど,最初からつけないでいてほしいのですよ。

もちろん,これだけユーザ数(加入者数)が増えた,という実績が欲しくてやっていることなんだろうけど,お店側としても,さらにその上のショップ側としても,さらにそういうサービスをつけてもらうことにした会社側としても,こういう事実=店頭で解除してくださいと教示している事実,は知っているんだよねえ。それをふまえて,実績報告だとか,解除し忘れの奴らから小銭を稼ぐというビジネスなんでしょう。

これは結局,商売が人を相手にしているのではなくて,情報を相手にしているからおこることなんだな,とも思う。昔は「何とか安くならんのん?学割がある?ほなうちの子どもがやってることにして,なんとかしてえや」と客の方がお店側に交渉して,お店の人が仕方ないなあとか,こういう裏技を組み合わせれば何とかニーズに応えられるか,となって成立していたと思うのね。そういう商売人との交渉が,ものを買うときの面白さでもあったんだけど,高度にシステム化されてしまうと,お店の方から情報を漏らしちゃうようになっちゃった。漏らす,というか,「あいつにはできてどうして俺にはできないんだ」というクレームにもならないし,なによりどのお客様にも同じサービスを提供する,という建前ができるわけで。そういう意味ではコミュ力不足の買い手が損することもないんだから,良くなっている面はあるんだけど,「最低ラインをあげたことによって,みんなちょっとずつ平等に不幸」という低レベルのパレート最適になっているような気がする。誰にも同じサービスをするって,商売人倫理としてどれほど重要なんだろうな?

そもそも商売上のやりとりは,不平等でいいと思うのだ。気に入ったヤツには安く売る。気に入らないヤツには高く売りつける。いい人だと思えば高くても買ってやる。安いものであれば,品質が悪くても仕方ないと思う。こっちの方が,「みんな平等に安っぽい品で我慢している」よりよっぽど楽しいように思うんだけどな。

まあ合理のラインを個人におくか社会におくかという違いでもある。こういう「わかっててやっている,馬鹿馬鹿しいこと」も,ミクロ・マクロダイナミクスの問題なわけです。社会システムの要請と個人システムの要求の狭間でどう動くか,ということを考える,社会心理学的問題のひとつではないだろうか。




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