Kosugitti's BLOG

アンドロイドは正規分布の夢を見るか

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2016 / 3月

終わりの始まり

組織の会則で,辞める方法が書いてないのはおかしいように思います。

みんなが辞めると言い出したら成立しないのであれば,その組織は成立してないも同然でしょう。

そろそろ日本社会は,組織は,グループは,「終わり方」「辞め方」をちゃんと考えるようにならないと。

だってもうそろそろ日本の古いシステムは終わるのだから。

引き際をきれいにするためにも,少しわがままいってみましょうかね。
追記  この感覚が、私の先のエントリーにある「最近の若者は恋をしないのが不思議だ」という感覚とパラレルであることは自覚している。むしろ年長者から見れば、「最近の若者はなぜ組織に属さないのか」を不思議に思い、当然あるべき社会性・集団帰属意識の無さに驚いていることだろう。はたして集団は種レベルの要請か?



忘れない,恋心

最近,恋愛を特にしたいと思わない若者によく出会う。

男女が二人になれば,何かしら可能性があると思って生きてきたが,「全く何もない,考えられない」という声をよく聞くようになった。

学生の頃,指導教員が「人生のエネルギーの半分はゼミ,半分は異性にかけろ」と言っていて,その言葉に従って生きてきた人間としては,最近の若者のその感覚が理解できない。

今の学生が,20年前と違う社会状況に置かれていることは理解しているつもりである。生まれてこのかた好景気を感じたことのない世代だとか,大学の縛りがきつくて忙しかったり,経済的な理由から(ブラック)アルバイトに振り回されたり,リアル社会だけでなくSNSのようなバーチャル世界も含めて,多層レベルでの多面的なバランスをとらなければならないストレスがあったり。

とはいえ,恋愛の根本は生理的な反応=性欲に基づいているものだと思うし,そういう種のレベルでの命令を個体レベルの意識が押さえこめる,というのは理解できないのだ。
もちろん向こうも汚れた青春を送ってきたこのおっさんの感覚なんかわからないだろう。

恋愛の根本が性欲だと言ってしまうと反論があるかもしれない。社会心理学的に,親和欲求であるとでも言っておいたほうがいいか。
しかしそれにしても,相手のことしか考えられなくなって興奮して眠れなくなってデートしている時の幸福感があって・・・という認知機能がバグっている(故ミンスキー博士)状態は,制御できない本能的なものであるのではないか。

この仮定をも疑うとすると,心理学はいろいろ見直さないといけないことがあるんじゃないか。
私にはなかなか疑い得ないのだが。

先日深夜の飲み会で,隣の席の男の子がこっちのパーティーの女の子に声をかけてきた。その時の安堵感といったら。



ゼミ旅行に行ってきた話

ゼミ旅行は一泊二日で熊本へ。

ゼミ関係者各位,としか言いようのない複雑なメンバーで,総勢13人にもなったものだから,公共交通機関を使うより運転手さん付きのバスを使った方が安いという。結果として,なかなか便利でした。我々しか居ない空間だし,二人席を一人で使えるし,目的地まで一直線ですからね。

初日は阿蘇ファームランドで,健康になりに。アスレチックを38種類やって,体を伸ばしたり縮めたり。ハードな運動ばかりでなく,これ何の効果があるのレベルのものもあるんだけど,楽しかったです。コースに入る前に係員さんが前屈してみろという。終わったら絶対にその状態よりできるようになっているから,と。実際やり遂げて,入り口のところでやってみると確かに曲がるようになってるんだよねえ。よかったよかった。

温泉も複数のお湯,サウナ,露天風呂で満喫しました。夜は学生がカードゲームをやっていたようだけど,てっぺん越えられないシンデレラボーイ(おっさん)。

翌日は阿蘇グリーンランド。まあ遊園地ですな。メンバーの一人にどうしても乗り物酔いする人がいて,その人以外はみんな何らかの乗り物に乗りましたよ。絶叫系も楽しいもんですな。
そうそう,前厄らしく残念な出来事も。お昼に入った園内のレストランがひどくて,72分待ったけど注文したハンバーグが出てこなかったので,キャンセルして出てきてやりました。結局園内のマクドナルドで「すぐ出てくるっていいねえ」とハンバーガーを食べるなど。やれやれですな。

夕方になって,肌寒くなってきたのでお土産を買って退散。

帰りに寄ったちゃんぽんのうまい店もよかったです。あぁ,春休みが終わっちゃったなあという感じ。

卒業する人もしない人もした人もしたい人も,こんなおっさんと遊んでくれてありがとうございました。

 

追伸 今年もひどい罰金刑をくらいました。



教えることについての私論(返歌)

同僚の記事,教えることについての私論がなかなか面白かった。引用している記事の流れは本当に問題外で,時代錯誤という言葉で表現するよりは,そもそも「教える」のフレームに入っているかどうかがわからないレベルだと思う。

私にとって「教える」とは,端的に言えば暴力です。教えるとは,俺の考えに沿え,ということだからね。学校で,家庭で,あちこちで「教育」がされているけど,単一の正解がある質問に対して回答を求める時点で,間違いを罰する。つまりそれは暴力になりうるという自覚がないと,教壇には立てないでしょう。

私は大学で単位を出したりしていますから,基本的に暴力を振るっています。成績をつけるというのは,非常に権力的で嫌なことです。

でもやります。

それは,私は学位をもっているからです(学校の先生なら,「教員免許を持っているから」というところでしょう)。要は,教育すること,その学問領域での知識や記録について正誤判断ができる資格を持っているということです。その資格は,母校(師匠!)が出してくれて,それを現所属先が認めてくれたので,その責任の範囲内において評価できるのです。

大学や研究領域では,正解がわからない問いが多くあります。だから,学生は一般的な正解を探すの絵はなく自分の正解を見つけないといけません。いいかえると,自分の価値観(評価基準)を確定する,自分ベクトルの基底を求めるのと同じことです。そのレベルで学生と会話したいし,していると思っています。

大学で私は「何を言っているのかわからない」というセリフを何度も言います。ただし,それは「私の言うとおりにしなさい」という正解がある教育の文脈でのセリフではなく,正解のない研究の文脈の中でのセリフです。つまり,「コミュニケーションしたいのにできないから何とかしようよ(お互いに)」という意味です。

大学生にもなって,さらに言えば院生にもなって,正解を求める人がいます。そういう人とは,私の上述のスタンスと違うところが多いので,ディスコミュニケーションが生じやすいです。そういうときはもういっそ,わざと生じさせてやります。先日大学院の試験で「私は何が伝えたかったのでしょう」という課題を出しました。正解を探す学生にとっては辛い質問だったと思います。そうでない学生のレポートは,結局問いが自分に向いていました。そうなりますよね。

教育,という言葉は「知っている人が知らない人に伝える」という関数の名前だと思います。私はこれを否定するのではなく,そこに止めます。

「知らないことについて,腹を割って話し合う」「話し手の考え方を理解する」というのは,私の言葉では「教育」ではありえないのです。それはコミュニケーションであり,研究活動です。

教育は暴力的で,一方的なものです。もちろん,「こんなことも知らないのか」とか「教わる側の態度が悪い」みたいな,個人的かつ情緒的な話になりがちですが,そうならないようにしているプロが教師ってモンなんですよねえ。たぶんねw

そして,教わる側の社会環境や来歴が,ひと昔前と比べて多種多様になっているので,「教師は学び続けなければならない」わけです。人にものを教えるというのは,相手の事情や取り巻く環境について十分な理解と配慮をした上で,暴力的に価値観を与えることではないでしょうか。




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