子供は認められたがっている

今日は参観日。数日前から、見にきてね、見にきてねというので行ってきました。

教室につくと、泣きかけの娘の姿が見える。何があったのか、と思ったら、どうやら自分のクレパスをなくしているようだ。お絵描きの授業で、自分のクレパスがないので教室内をトボトボあるいている。結局先生が、別の子のクレパスを借りてきてくれたから落ち着いた。親心としては「担任の先生、もっと早く気づいてあげてよ」と思うが、まぁ暴れ回る四才児をあれだけ抱えていたらムリというものか。

授業の内容は、昨年と比べたら格段に進歩している。ぬりえなのだが、まず1.塗るべき場所が決まっている。さらに2.「ここは何色を塗ろうか」と塗るべき色も決まっている。さらにさらに、3.「雲からお花に雨がテンテンテン・・・」とか、「ジョウロからお花に水がサーッ」と、点線、実線で描画しなければならない。これは高度だ。昨年は確か、色のついたものをもって、白い紙に何かかけたら花丸、というレベルだったと思うが。こんなに一足飛びに進んでええんかな、と思っていたが、案外できるようである。

娘は雨雲を灰色に、チューリップを黄色と赤に、ジョウロをピンク(好きな色でいいといわれた)に塗った。
水色で、雨を降らせたり水をやったりした。
隣にいて、「すげぇな、頑張ってるな、上手だな」と声をかけました。誉めて伸ばすタイプのわし。

十分な成長が認められたので、午後から大学にでましたとさ。

さて、最近、久保田カヨ子さんの久保田メソッドが注目を浴びているようですな。

参考まで↓
久保田カヨ子が面白い – endy111 Log
エチカの鏡★赤ちゃん教育について(5月31日放送) – Yahoo!知恵袋

心理学者である夫の研究を理解して、自分の子供を実験台にして育てたらすごくうまく行ったそうで。今では周囲の人が「うちの子も」と預けにくるそうで。これをしなさい、という七ヶ条がテレビで紹介されてたりするそうで。

まぁ否定する気は無いのですけど、嫌なところが何か所かあるわけです。

第一に、「この方法を使ったら、子供が7ヶ月で歩き始めた(普通は一歳ぐらいから!)」というくだり。早く立てたからどうだというのだろうか(笑)早く話せる、早く大人になれる、というが、果たしてそれが即、その子やその周囲の幸せかというと、そんなことは無いだろうと思うのだ。個人の成長だけが重要なのではない。社会や環境に適応できるかどうかが一番の問題である、と私は考えます。大人のほとんどが、「立てない」「話せない」より、「人間関係がぁ〜」とかって悩んでいるのは、衆知の事実じゃないのか。

第二に、「うちの子も」と子育てを預けにくる人がいるということ。子育てを人任せにする、実の親から育児を放棄される、というのはその子にとって最大の不幸だと思うのだが、どうだろうか。確かに、私は子育てのプロではないし、前頭前野のことも詳しくは無いけれども、お酒を飲んで時々お父さんを辞めるけれども、それでも子らは俺の子らであって、人任せにはしたくないのだ。「お前の子供であるせいで、偉くなれなかった」といわれたら「ごめんなー」としか言いようがないのである。それはもう、諦めてくれ。しょうもないプライドかもしれないが、俺はこの子らの親、という限りには、責任を持ちたいのだ。子育てが苦手だからといって、それを人任せにするのは違うと思うなぁ*1

第三に、「これをしろ七ヶ条」みたいな表現。多分にテレビ局の都合があるのだろうけど、たしかにわかりやすいのだけど、「天才にするにはこれをしなければならない」と「これをしたら天才ができる」というのは別問題。鴨川会長のいうように、「努力したものがすべからく成功するとは限らない。しかし、成功するものは皆、努力している」ということです。七ヶ条さえ守っていればいい、最低七ヶ条は守ろう、というのは実は間違いで、七ヶ条を作るに至ったプロセスというか、その背景、上の例で言えば「夫の研究を(妻自ら学習し)理解して」のくだり、あれが大事なのです。本質をとらえていれば、その表現型として七ヶ条はできるのだけど、ほんとはそれに収まらないぐらいの細かいルールが無数にあって、それは本質を知らないとふとした拍子にでてこないのだ。だからといって、悪影響があるわけでは無いだろうけど、要約された情報(をさらにネットで見るだけのような)「テレビは見せていいのか、なるほど」という理解だけでは何にもならないと思うのだ。

そないがんばらんでも、子供たちはかわいいし、かわいくないこともあるけど、まぁ、6:4で可愛い方が勝つかな、幸せカモな。これぐらいでいい。そういう意味で、うちはいい母、いい子たちです。

これが俺メソッド(笑)

*1:もちろん、人任せ、放棄、というほど丸投げではないんだろうけどね。ちょっと口が悪いのは自覚の上。