「人文学・社会科学における質的研究と量的研究の連携の可能性」第四回研究会に参加して

もう四回目,年二回ぐらいだから足掛け三年ほど参加している研究会。いってきましたよー。

今回は特に,自分のバックボーンが他の参加者と違うなあ,というのを感じました。
参加者の多くが社会学者で,計量をしている人もいればエスノメソドロジーの人もいる。
私は一応心理学者畑で,関連学会として行動計量学会と数理社会学会がある,という位置にいる。一応社会学部,社会学研究科を出ているので,社会学や社会福祉学の話も知らないわけではないけども,ぐらい。

そうすると,話者からでてくるひとつの単語,考えるときのポイントが,いずれもどこを想定して語られているのか,が私が普通に想定するのと違うので,「何をいっているのか」とか「何が問題なのか」と,いわば研究会のスキーマが設定できないで悩んだりする。

そもそも「調査」という言葉も,色々な意味があって使われる。質的,量的なんて問題じゃない。
聞き取り調査,サーベイ(質問紙調査)の違いはもちろんあるが,そこで何をしようとしているのか,荷も違いがあるわけで。科学として,真実の到達を目的としている,といっても,心理学における真実と社会学における真実と歴史学における真実は全部違うわけです。

心理学だと基本的に「人間の一般的な行動傾向(=母集団は人類)」を見ようとしているけど,社会学の場合は領域特定的であったり,であるべきだったりする人が調査をする。一応,科学としてのオープンネスや「データの改ざん(地獄レベルmax)」はしない,というルールが共有されているだろうけれども,悪しき実証主義や構築主義的発想でもってアプローチすると「真理が知りたい」という目的ではなく「自分の都合のいい実践の足がかりにしたい」という動機が入り込んでいくようにおもうわけです。
この,価値から自由になったレベルで「質的,量的研究の連携」を語れるかどうか。

というか,そのレベルでは「質的・量的の対立」という根本問題そのものが存在しなかった,ということが,研究会を通じて共有されたんだけどね。

余談ですが,一般の人が考える「調査」や,マスコミ業界における「取材」は(科学的)調査とはまた意味が違う,という話も懇親会で聞きました。これは勉強になった。

というか,社会一般の市民は「調査」に何を求めているのか。どういうものだというイメージを持っているのか。

例えば,科学的に言えば「○○の影響があるとはいえない」というのは当たり前の表現なんだけど,一般人にそれを言うと「逃げている」とか「隠している」と言われるわけです。科学的には「ないとは言えない」ということを証明するのに苦労しているるのに,これが原因である,と特定的に言うのなんか無理だということを,統計教育の第一ステップで教わるはずなんだけどなあ。

そうすると問題は,調査リテラシー,マスコミリテラシーってことになる。市民教育かなあ。

根本には,「数学ぎらい」という根強い偏見があるんだけど,これをどうやってやっつけるかだなあ(´Д` )