連携研究会に参加

正式名称,「人文学・社会科学における質的研究と量的研究の連携の可能性」第三回研究会」に参加してきました。

 

量的研究では何をしているか,質的研究ではどのような利点があるかについてのご報告とディスカッション。

量的研究の例として渡邉氏が紹介しておられたのは,全くもって正当なやり方であって,まあうちの学生にもそのまま教えてもらいたいというような内容。もっとも,社会学系なので大規模調査の実例ですね。

心理学系やその他もう少し応用色の強い世界では,数千人規模の大規模調査をデザインすることは少なくて,学生相手にせいぜい数百人程度の調査。もちろんランダムサンプリングとは名ばかりで,学生心理学じゃないかと揶揄されることもしばしばあるタイプのやつです。規模が小さいので,研究の責任母体というか,調査の管理監督権限が,せいぜい研究室単位,あるいは研究者個人単位になるようなのが主なので,ちょっと状況は違うところがある。母集団が人類,といういいわけもあるしw

もちろん,大規模調査をする心理系もあるし,心理学の調査が全部ウソだというわけではありません。そもそも,細かい手続きの中で妥当性や共有知を持とうという方針はぶれるものでもない。質・量関係なしにして,悪い研究の例をあげつらって批判し合うのはヨクナイのです(この研究会に出るときは,特にここを注意しておかないと・・・です)。

 

さて,大規模調査の最後にデータのアーカイブ化に言及されてました。心理系は上記のような理由から,アーカイブ化が進む機運は全くと言っていいほどないけど,本当はそうすることで量的研究の品質保証にもなるわけです。

突き詰めて言えば,この「取ったデータを外部に開くことができる」ということが量的調査の最大の利点なんだなぁ。それっぽくいえば,データの一意性があるということだろうか。すなわち,コードブックなどを参照すれば,誰が見ても数値で1と入っているところは1なんですよ。他の解釈のしようがない。

もちろんそう言ったデータを使って,調査主体が気付かなかったような新たな知見を,他の分析者が発見するということはあり得ます。そうならないように頑張るのが,量的研究者の意地の見せ所,というのもお話の中にありました。

それよりも,データを取った人と分析する人の分業が可能,ということが量的調査の最大の長所なのです。

 

質的調査は,例えば逐語録を公開したとしても,文脈の解釈の仕方,背景要因の理解の違いによって,同じ表現でも,分析者に取って全く意味が異なることがある。敢えていえば,それが質的調査の長所なのかもしれないが,量的研究者が危うさを感じる最大のポイントはそこです。

 

関心相関性という言葉を持ち出さなくても(例えば帰属理論でもかまわない),データを取る時点で調査者の意図が,口調,項目,果ては研究対象の選出に至るまで影響してくることは否めない。であれば,自分が見たくなかったものは見ないとか,見えないものが見えないということが出てくる。極端な話「お前のさじ加減一つやんけ」で全部終わってしまう可能性がある。フィールドに入って,自分の気付いていなかったことに気付かされた,といっても,それもお前の中やんけ,という話になっちゃう。

いや,そうならないんだという話がK先生あたりから来そうなンだけども,今回の質的研究側のご報告(久保田先生)の例は,この危うさを感じさせてしまいました。なぜなら,フロアでは別確度からの議論が成立していたからです。

 

量的研究が対象にしているものは,一番控えめにいうと,「取ったデータが全て」=「取ってきたデータが論じるべき社会」ということになるんだよな。少なくともデータの中ではこのモデルが成立してますよね,っていう表現はそういうこと。そういう意味で客観性が担保されているし,数字は誰が見ても数字,つまりデータの一意性は確実に保証されている。

量的研究の最大の問題は,回答者がちゃんと本当のことを回答してない,という可能性が質的研究に比べて生じやすいということ。それを数で,全体の傾向性を語ることで誤差同士がキャンセルアウトするという前提で話をするんだけど,「お前の取ってきたデータは社会でも何でもないよ」と言われてしまう可能性が高いわけです。

もちろん,インタビューをしたら回答者は嘘をつかない,というのも幻想なんだけど。

 

 

さて次回は人類学系の人が話題提供者になるかも,です。「両方やるのがうちでは普通なんだけど,社会学ではどうして質的・量的アプローチがわかれちゃったの?」という問いかけは,三回目ではまだ早すぎるお題だったとかw

全六話らいしけど,さあどういう決着がつくんでしょうね?

 

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