人文学・社会科学における質的研究と量的研究の連携の可能性#2 に参加・報告してきました

標記の研究会に参加。量的アプローチの側として報告も。
報告内容は「多変量解析は何をしているか」という話で,因子分析の基本モデルとか昨今の統計モデルの広がりについて好き勝手に話す等。
最後に質的アプローチとの違いについて色々発言したんだけど,真意がうまく伝わったか,あるいは参加者に刺激を与えるような話だったかなぁ,と思ったり。

言いたかったのはこういうところ。
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つまり,研究対象はすべて質で,言語化・記号化された研究のソース・データは全て量なのだ,ということ。「全て量」というのは確かに強い(強すぎる)主張かもしれないけど,例えばテキストはもちろん,図でも,音でも,動画でも,マルチメディアの今となっては同じプラットフォーム(ビット演算)で扱えてるじゃない,と思う。もちろん意図を汲み取るとか,現状をちゃんと反映しているかという点については今現在の技術でも至らないことは少なくないが,原理的にはどうなんだ,というのが私の考え。

社会学系の人とお話をすると,どうしても用語や概念が社会学的こだわりが含まれるので(「権力」「階級」など),あぁそういえばうかつにこの単語使えなかったなとか,その単語で攻めてくるかぁとかいった感覚を久しぶりに思い出す。社会学部出身なので,ノスタルジーだね,これは。今でこそ心理学だけの世界にいるようだけど,俺は心理学じゃない教育を結構受けているんだよなぁ。

あと,質的アプローチに原理的限界はないか,という意味で「チェック機構の外在化」の話をしたいんだけど,どうしても教育実践的,一言で言えば「しつけ」の問題になってしまう。これは俺の議論のふっかけかたが下手なんだと思うけど。量的アプローチの人でも,しつけが出来ていない人はたくさんいますよ。むしろ,量的アプローチでしつけがなってない方がタチが悪いと思う。自分自身,いいしつけが出来ているとは思えないけどね(だからこそドレスコードぐらいは遵守しようとしている,みたいな)。
ただ,自分の外から,客観的な事実として楔を打ち込まれることが担保されていなければ,科学としてどうなの,と思うわけです。
さてそうすると,科学とは何なのか,いかなる営みなのか,量的アプローチだって原理的にちゃんとすることは出来ないだろ,という話になるので,うーんそれはそうなんだけどさぁ,という俺の中でも歯切れの悪い感覚がグニュっと渦巻くという・・・。

やっぱりもっと本を読んで,考え尽くしてから議論にむかわないとな。

途中で,じゃあお前のとってる量的データってのはどんなだ,という質問を頂いた。そうそう。質的でも量的でもいいから,お互いの「良い作品」を持ち合ってその良さを分かち合えれば良いよね。わるい例をいっぱい出して(悪例の方が数が多いんだけど),互いの「しつけがなってない」ことをけなし合ってもね。

主催者はそもそも,質的・量的アプローチに対する互いに持ってる誤解みたいなのを解きたい,というところから連携を呼びかけたということなので,そういう意味では悪い方の例示も意味があるんだろうけど。ともかく今後も楽しみな会です。

夜は懇親会。一緒に報告者になった先生が,自分とは全く逆の環境(周りが量的アプローチ好きで,あいつのところに行ったら質的アプローチに汚染されるぞ,的な)にいらっしゃるとのこと。このパラレルワールド感がとても面白かった。そういう世界もあるんだなぁ!でも,日本酒を飲めばみんな同じです:)

追伸)個人的には,この図を書いている時が一番楽しかったw
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