世界は否定によって再帰し、成立する。

 ヒューリスティック(直観的情報処理)とは、繰り返しパターン化された行為・思考の自動化だ(先天的なもの、後天的なものの別はあるにせよ)。
 「意識」「意図」「こころ」「自己」(並びに、自己にかんする心理学的用語「自我」「自尊心」「自己評価」「自己愛」)は、そのようなものが指し示されたときにそれがあると仮定して反応するように、と繰り返し求められるため自動化されたヒューリスティック処理である。すくなくとも、それが「何か」と問われて、答えることはできても実体を指し示すことができないのであれば、この仮説を否定することはできない。ジュリアン・ジェインズは、自動化される前、頭の中で神の声がささやいたという。それがジーンやミームで淘汰されつつ伝達され、今の形になったというのは妥当な考えの一つであろう。

 学生に、「諸君は意識があるか」ときけば、眠ったり死んだりしているのでなければ「ある」と答えるだろう。なぜなら彼らは眠っても死んでもいないのだから。
 学生に、「諸君は意図があるか」ときけば、普通「ある」と答えるだろう。講義が嫌だ、面倒だ、答えたくない、ということがあっても、なんらかの意図があるということは否定できないだろうから。尤も、意図の意味がわからないと言われるかもしれないが。
 学生に、「諸君はこころがあるか」ときけば、あるとこたえるだろうか?しっかり考えたことがないんだけど、みんながあるといってるんだからあるんじゃないのとか、心理学っていう講義があるからあるんじゃないの、というこたえが返ってきそうだ。しかし、あります!と自信を持っている人間は、ずいぶん少なくなっているように思う。学校ではこころを前面に押し出しておしえるが、だからこそ、「なんかそういうのがあるらしいぞ」と逆に確信できなくなるのかもしれない。
 学生に、「諸君は自己があるか」ときけば、いやがられるのではないだろうか。就職活動場面などでは、それがもとめられるのだが、求められることがわかっているのでまだ自己を確定したくない。あるいは、周りの目を気にして、あると胸を張れるほどのものがない、といいそうだ。かつて、学生運動が盛んだった頃は、学生が権威に対して、あるいは学生同士で自己批判をしろと責めたように、確実にあったはずの「自己」が、今はさほど自明ではない。

 意識、意図は比較的確度が高く、心や自己が比較的確度が低くなるとすれば、その理由は「否定」をはっきり認識できるかどうかである。意識、意図がない状態のヒトは想像できる。眠っているかのようだ、と言えばすぐにわかるからだ。
 心がない状態、自己がない状態のヒトはそれにくらべてより想像しにくい。自閉症などの症例を思い出せるかどうか、全くキャラクターが把握できない支離滅裂なヒト、というのが身近にいないので想像しにくいからだ。なくはないけれども、とか、あるにはこしたことがないとか、なくてもいいけどちょっとはあったほうが、といったところか。

これをより広げてみよう。
諸君は親友がいるか。
諸君は心休まる仲間集団がいるか。
諸君は社会があるとおもうか。
諸君は世界があるとおもうか。

 いずれも、否定の確度の問題であり、徐々にその確度が怪しくなってくる。
 社会心理学は、今の学生にとっては社会と心という、想像できないほど抽象的なものを扱っているように思われるに違いない。
 総合行動科学のような、目に見えるものだけを俎上にのせようというのは、こういう状況では非常に魅力的であることは間違いない。

 社会の存在は、その規範によって明確な逸脱を否定するところからうかがえる。
 ここで、規範による否定のルールは四種類ある(Heidt)。あるいはさらに上位の二つ(ジェイコブス)に分割できる。これはルーマンの四つのメディア、清水・小杉の四つのソシオロジックと対応する。清水・小杉は、対人葛藤場面からこの考えを導出した。プレイヤーAとBの葛藤における解決を論じるからだ。ルーマンのメディアは、ダブルコンティンジェンシーという二者の場面からの議論だ。市場と統治の論理は、交換することと取ることという二つの原始的相互作用を基盤にしている。

 しかし、Heidetのルールには五つ目がある。五つ目のpurityはこの社会のルールに属さない。なぜなら、これは相互作用に依存しないからだ。いわば、自分が自分に対する判断、再帰的な判断としての善し悪しである。

 二者関係を結びつけるのにひつようなもの、それは論理演算でいう、AND,OR,NOTの三つである。論理の世界はこの演算子で全ての論理空間が説明される。前二つは、二つの命題、AとBを用いて、 A and B、A or Bの判断である。最後の一つは、一つの命題Aだけを用いた、not Aである。
 この、最後の否定の論理演算がなければ、全体は成立しない。

 明示的に否定することができなければ、自己や社会は成立しない。

 免疫系は、否定によって自己を規定する。決して肯定によってではない。

 藤澤は、側抑制による境界の強調、マッハ効果の重要性を指摘する。マッハ効果によって強調された境界が円環になったとき、システムが完成する。抑制= 否定が再帰し、世界が成立するのである。

 いくたびかの機能のパターン化、パターンのパターン化が生じたとき、機能が再帰的にたたみ込まれる。機能が自動処理のレベルに変質する。藤澤はこれを機能の重畳性という言葉で表現する。安定したシステムは自己を認識する。それは否定による。否定によって再帰的に自己が形成されれば、つまり自己が「あれ」ば、「ある」を前提に、肯定的なシステムが回り始める(ただし、パターンが生じるということが、同時にパターンの否定が生じることを意味しない。否定がパターンを生むが、形成されたパターンを否定するのは異なるレベルの話であるから。ラッセル。)。

 統計学は、再帰し始めた。理想とする空間に近似させて是非を問う、ネイマン・ピアソン型の論理より、ベイズ統計とその応用技術であるマルコフ連鎖モンテカルロ法が主流になり始めた。仮定に従う分布を限られたサンプルの中から反復生成し、これを探していた分布だと呼ぶようになった。仮定した分布に従わない要素を否定し、自己の目的を見いだそうとしている。門戸を広げるのでなく、限られた世界を否定して自己を発見した。カントに習って言えば、分布は認識に従う、のである。

 教育は、再帰し始めた。よき市民とはなにかを定義するため、よき市民に必要な最低限のマナーを教えようとする教育プログラムができた(SEL)。よき大学生とはなにかを定義するため、よき大学生に必要な最低限の思考法を教えようとする教育プログラムができた(批判的思考)。これは、その最低限にも満たない市民や学生を否定し、世界を成立させようとする考え方だ。臨床心理学・異文化心理学の分野では、心の理論やEQ(Emotional Intelligence)が注目されている。感情すら、明文化された最低限のマナーに従わなければならない時代がやってくる。

 理想的な世界を唱え、目的にむかって定義をすることは、実証科学的ではない。理想は操作可能な仮説に置き換えられないからだ。
 明らかな間違いを否定し、間違いを正すように細かく操作を積み重ねることは、具体的で実践的な営みだ。しかし、そこから理想は生まれない。

 何が間違いなのかもわかっていない学生には、正解を教えるべきだろうか。間違いを教えるべきだろうか。
 まず、諸君にも心はあるだろう、というコンセンサスを得るところから始めるべきだろうか。
 諸君に意識はなくはないだろう、とコンセンサスを得るところからはじめるべきだろうか。
 すでに「集団があります」というのは通じない台詞であり、「集団研究がありました」と言うしかないのである。

 社会を仮定して、集団を前提して、皆でそれを信じるように集団力学を展開する。これは科学ではないのだろうか。

 ヴィトゲンシュタインは言葉と図の違いを「否定の違い」にあるとした。言葉は明示的に否定できる。図は否定できない。絵画に墨で大きくバッテンをかいて も、それが新たな図になるからだ。図では世界が成立しない。
 逆に、ひとたび言葉によって世界が成立すれば、それは名義尺度の遡上に乗ったことであり、数量化の技術を使うことによって一気に比率尺度まで展開、方程式 による世界の完成である。そうであれば当然、方程式のお作法と、解の公式、近似的アルゴリズムの話になる。

 はじめに、言葉ありき。言葉がある前は混沌でしかないのであれば、一学徒として解の方程式を探すだけの旅であることを受け止めなければならないのか。

 それでも僕は、綺麗な絵を見て、ただ綺麗だなぁと感じ入っていたいのである。