こどもの理論

娘が今日も,幼稚園に行きたくない,といった。お弁当が嫌なのか,半ドンの日も延長保育するのが嫌なのか。

父と娘の二人家族をしていることで,娘に「目に見えないストレス」「本人が自覚していないストレス」があるだろう,とは仮定している。

幼稚園の先生とか,保育士をしていたひとに言わせると,子どもは本当は甘えたいのに精一杯頑張っているそうだ。

私は保育士になれないな,心理学者の端くれだな,と思うのは,こういうとき「ほんまにそうなんかな」と思ってしまうからだ。
子どもは純真無垢で愛されたがっていて精一杯頑張っている,と「観察者が思いたい」ことと,「実際そうであること」の区別が出来ないからだ。

たぶん,「観察者がそういうモデルで見たい気持ちが反映されている」と考えることの方が正しいのだろうと思う。

保護者としては(実の子に対しては),真偽のほどは定かでないにしろ,逆の仮説=子どもはどうせ何も考えてない,を取ることの方がリスキーだな,と思うので一応「こいつなりに頑張ってるんだろう」と仮定はしがちではあるが。しているがまぁしかし,子どもというのは甘えさせるとつけあがるもので,今日もなるべく機嫌良く過ごしてもらおうと言うことを聞いていたら,やれ服を着替えさせろだの,やれ荷物を持ってくれだの,やれおんぶ・だっこしろだの・・・だんだん甘えがエスカレートしてくるわけです。こっちも人間が出来てないから,どこかで腹が立つわけでさw

ポイントは,「子どもは頑張っているものと考える」という仮説vs「子どもは別に頑張ってない」という仮説がどちらであれ,結論の取り方かな,と思う。
たぶん,子どもは頑張っている,なので親も頑張らなければならない,子どもの言うことを聞かなければならない,というのは間違い。
たぶん,子どもは別に頑張ってない,なので親は子どものことを気にせずに勝手に振る舞えばよい,というのも間違いなんだろう。
どっちか一方の極に行くのが気持ち悪い,と思うわけです。

最適値はきっとその中間にあるのだと思うし,「生活する上でのどうしようもなさ」に助けてもらうしかないのだろうと思う。
つまり,子どもは頑張っているか頑張ってないかわからないけど,世話はせなアカンし,親だって人間だから出来ないことはあるわな,ということを親子双方が理解するしか。

今日も娘が行きたくない,と靴箱でごねているところに先生が来て「どーしたのー。今日頑張ったらあしたはおうちのひとと一緒だよー」と慰め?てもらっているところ,

「まぁお父さんも仕事せな,ご飯が食べられへんからなぁ。娘よ,しかたないことって,あるで。あきらめろ」

と言いました。

個人の責任を社会の所為に還元。
俺って社会心理学者だなぁ(笑)

コメントは受け付けていません。