大学教育とSelective Heteronomy

6月は中だるみだ。教える側も、教わる側も、なんとなくだるくなっているような気がする。

教える側は商売なので(本当は違う)、嫌になっていられないのだけど、教えるテーマが統計的仮説検定からt検定、実験計画へと進んできている関係上、どうしても学生の顔が曇り勝ちになる。

今日はt検定。教える側としては、有意差あり!で話を終わらせてはならない、と思う。第二種の過誤や検定力の話もしなければならない。でも講義の内容で、どこにアクセントを置くかというと、やはり手続きの問題であり、話題の締めとしては「有意差あり、でだん!」となるかな。平均、分散、t値の計算を経て、数表を見てのt値を確認することで幾重にもステップを経てきている彼らとしては、これでいいのね、と結論をつけてあげたい。

でもその後で、いや実はこれがすべてじゃないんだよ、という流れって、教わる側にとっては「えー」ってな感じじゃないかと思うわけで。
有意差でたからいいじゃない、効果量がーとか、無作為抽出がーとか、正規性がーとかは、瑣末なことじゃない、と思ってしまうのではないかな。全然瑣末なことでもないし、そういうことが言いたいわけじゃないんだけど。

講義計画が悪い、というのは横に置いといて。

ふと思うのだけど、こちらの言いたいことなんて結局伝わるのかな。結局は、受け取る側が、受け取る側の理解の仕方をする。それ以上のことなんてないんじゃないか。よほど特殊な訓練でも受けない限り、聞きたくないことは聞きたくないし、実感がないものは真実でもないものだ。情報は、受け取り手に優先権があり、彼らが選択的にこちらの情報を処理するだけなのである。

一般教養で、「○○ということですね、わかりました!」と書いてあると、いやそんなこと言った覚えがないし、と思う。
先日一般人を相手にバランス理論の話をしたら、「先生のおっしゃるバランス感覚というのは大事ですから・・・」と変な引用をされた。

言葉は、一度体を離れると、もうコントロール出来ない。怖いなあ。

言葉が足りない分を資料で補おう、といっぱい補足資料を作ったりするのも、何かが伝わる保証でもない。なのに、何かを伝えようとして必死になっているのは、結局「資料を配っている自分」「細かいところまで指導している自分」に酔っているだけなんだといわれても、反論しようがない。あるいは、「自分はちゃんとやったよ、誤用したのはおまえらが悪いんだ」というための自己防御か。

それが(高等)教育だ、それがコミュニケーションだ、といったらそれまでだけど。

Twitterをしていると、大学教員は、結構あちこちで同じようなことに悩んでいるように思う。
このやりきれなさと、あと30年ほど一緒に行くのか?うーん。

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