意識の量的限界

百パーセント意識的なシステムというものが論理的に不可能だということは、次のように考えればすぐに明らかだ。意識というものを、精神の様々な部分からの報告が映し出されるスクリーンに見立てる。精神プロセスの全体を見ると、その中には進化の現段階で既にスクリーンに届いている部分と、まだ意識化ができていない部分がある。その意識化されていない領域から必要な報告をスクリーンに届けるには、脳の回路にかなり膨大な回路を新たに増設しなければならない。すると次に、いま増設した回路の中で起こる出来事ないしはプロセスをどうやって意識のスクリーンに送るかが問題になる。

この問題が解決不可能だということは一目瞭然だろう。システムの意識化を進めようとする度に、意識化できない部分をどんどん加えていかなくてはいけないわけだ。

すなわち、有機体はすべて、精神全体のうちのささやかな部分を意識するだけで満足しなくてはならないということである。だとすると、素の限られた意識を経済的に活用する異が重要な問題になってくる。(中略)

この経済性を得るために形成されるのが、「習慣」であると考えてよい。

G.ベイトソン「精神の生態学」改訂第2版、”プリミティブな芸術の様式と優美と情報”より