そうだったのか現代思想

そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで (講談社プラスアルファ文庫)

「そうだったのか現代思想」というのもほぼ同時並行的に読んでいて。同じ哲学者のコトバも、数学的に理解する場合と社会学的に(あるいは一般的に)理解する場合とではこうも違うか、と楽しみながら読みました。これと上の「数学的構造」を比較すると、こちらの方が圧倒的に読みやすいのだけど、読みやすいだけにいろいろな解釈が可能であって、わかったようなわからないような感じになることこの上なし。
そういうのを排除するために、数学的表現というのがあるのだけど、多くの人は数学というだけで敬遠したりするんだよな。もったいない。いずれにせよ、システム論も変な観念論、悪い場合は全体還元主義になってしまうだけで、数学的に表現することをの本質が見失われているような気がする。

閑話休題。
この本は、ニーチェから始まって、フロイド、ハイデガーソシュールなど主だったところをトントントーンと描き出して見せます。ニーチェから現代思想は始まったのだ、というのは確かにそう思う。それ以降の、サルトルとかフーコーとかドゥルーズ=ガタリとかは、やっぱりよくわからないというか、わからないことをウリにしているとういか、まぁそんな感じ。ソシュールのくだりは、一つ面白かったんだけど、シニフィアンシニフィエって、英語で言うところのsigningとsigned(signの現在進行形と過去分詞形)なんだ、と書いてあって、ぐっと理解が深まった気がする。あ、なんだそういうことか、って。「数学的構造」でもそうだけど、やはりたくさんの言語(特にフランス、ドイツ)を知っておくことは重要だなぁ。

ボードリヤールも触れられていたね。記号やイメージを消費する社会、ということについては彼が亡くなったときもテレビなんかで解説されていたけど、結局いま現在も社会はその性質をはらんでいるようにも思える。これを超えることはできるんだろうか。徹底的に消費し尽くすと、次の時代が来るのかな。

と、こういうことを考えていると、思想の方が現実よりも遙かに先を見越しているわけで、そういう意味でもっと思想、ひいては学問、アカデミズムにたいする理解が広まればなあ、と思ってしまうのです。少なくとも、日本で、もっと。

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