続・勤労は罪である〜大学冬の時代とは〜

思うに、大学冬の時代というのは、三つの意味、段階があるのだ。

第一の意味では、単純に就学人口が少なくなるので、経営難に陥るということだ。これは市場原理から考えると、現在明らかに供給過多なのであり、多くの痛みを伴うかもしれないが、適切な落としどころに持っていくことは可能だろう。

第二の意味では、経営難を背景に、大学教員が雑務に追い回され、勤労意欲も低下するし賃金も抑えられるし、研究も教育もレベルが下がってしまうということだ。これは「今までもらいすぎていたんだからイイじゃないか」という外部からの声もあるだろうが、そこの業界で生きている我々にとっては勿論死活問題であり、既得権益を何とか守ろうとする力と、ハードにソフトに、脅したりスカしたりでコントロールする力との狭間で、揺れながら生きながらえされる大学教員にとっての冬の時代という意味だ。これは、国立も独立行政法人化したんだし、ということをちゃんと使って、労働組合を作って闘うなり協議するなりで、落としどころを探さねばならんのだろう。

第三の意味は、例えば第二の意味を「死活問題」という辺りに現れているのだが、「大学の自治」、「アカデミズム」という理念の死を意味する。私は、大学というのは教育・研究機関だと思っていた。昨日は先輩方に、この時点で、「何言うてんねん、何もわかってないやんけ」と、罵倒されたのである*1。「講義はするけれども授業をしたことなどない!」と敬愛する故T先生が激怒されたというエピソードを聞いて、私としてはもうほとんど正気の沙汰ではいられない気分であった。なぜなら、それは自身で見聞きして知っている時代の流れを背景に考えついた、学問のあるべき姿と考えているものが、本来の像とは全く異なるモノであったからであり、それが間違っていることに気づかないようなシステムが、既に十数年来の時間をかけて完成されているからである!!*2
こういった精神の死、あるいは伝達経路の破壊は、時間をかけて完成されている。これには世代ごとの「適応」があっただろうし、今の時点で「なんてコトしてくれたんだ」と先人に矛先を向けるのは時間の無駄ですらある。しかし、「大学の自治」という言葉、理想とすべき「アカデミズム」を語れない大学人が増え、職業としての大学教員が生まれ、増殖していることを考えると、闘うべきはこの第三のフェイズであるのかもしれない。

きわめてKU的な発想から行けば、このようなシステムをご破算にしてイチから作り直すことを考えるべきである。バンカラで、中央にたてつく都会の私学的発想であろう。

幸いにして?私はKG的な発想も受け継いでいる。つまり、やるだけやりな、駄目なら俺は勝手にちゃんとしたものをつくってやるさ、という生き方もあり得るのだ。これまた非常に健全な私学的発想である。

勿論第二の意味・フェイズで闘うというのも必要だし、そこに戦士が不足しているのも間違いなく事実なのである。

私がどうやって生きていくのか、まだ決めるには時間と知識と教養が必要だし、この手のことは決めるともなく決まってしまうモノなのかもしれない。しかし確実に言えるのは、今までの私はきわめてカラマーゾフ的に、卑劣漢ではあるが泥棒ではない、と胸を張っていたわけだ*3

院生会の会長に就任したとき、前任者から「とにかく・・・闘うように」と言われた。
今になって、初めてその意味がわかってきたような気がする。

*1:駄目な教え子でゴメンナサイ。正解?は研究教育機関。研究のついでに勝手に学べ、というスタイルが元祖。いや、俺もヴィトゲンシュタインみたいな講義をやってみたいですけどね?

*2:例として、FDという啓蒙、学術振興会特別研究員という制度、任期付き雇用制度などがあろう。

*3:かぶれているのでこのセリフを言いたいだけであることを、すすんで認めるものである。