心理学の中範囲理論

今日は二人の学生の、卒論計画を聞いたのだが、どうにも不十分だ。
学生の勉強不足が主な原因になっていることとして、その思いつきをどうやって心理学的研究にするか、というところの詰めの甘さが挙げられる。

卒論をしなければならない、となってから、教科書をぱらぱらめくり、自分の興味関心に近いテーマを選んで、適当に計画を立てて発表する。

みんなそんな感じだ。でも、この筋道そのもは、間違ってないのである。ただし、「テーマを選んで」と「計画を立てて発表する」の間のギャップを、ほとんどの学生は小さく見積もりすぎている。「適当に」というのは、手を抜いてと言うことではなくて、その研究テーマにふさわしいという意味で適当に、いわば適切に計画を立てなければならないということ。

そして、心理学は手法を確立することで客観性を保つことにして以来、計画の手続きが細かいのである。大問題を中程度の問題に絞り込み、それを小さい問題、すなわち具体的な手続きに落とし込む。これは論理的なプロセスであり、推論に推論を重ねて道筋を見つける(○○なので▽▽のはず、だから▽▽を□□すれば、そもそもの仮説が検証できる)プロセスだ。そこが甘いのである。学生は大問題から小問題に飛ぶことが多い。つまり「バランス理論を検証したい」から「質問紙調査をやる」というような。それがどうつながっているのか、どうつなげるのかを、本当に理解せぬまま発表する。それは計画であって、計画でないのである。方向性であって、手続きではない。具体性のない計画は、計画とは言わない。そしてその抽象的な、中途半端な、具体的でない計画を計画と言ってはばからない、その性根が問題なのであるが。

さて、その一方で、心理学は問題意識と手続きとがこれほど乖離してしまっていて、本当にいいのだろうか、と思ってしまう。疑問に思ったことを、推論をこねくり回した手続きに変形させてしまって、本当にそもそもの問いに対する答えになっているのだろうか。推論に推論を重ねるということは、確定要素が減っていくことでもある。そしてほとんどの心理学的研究は、研究対象の全空間(全事象)を定義せずに(できずに)研究するので、何一つはっきりしない研究だけが量産されるのではないか。心理学は百年かけて、無駄なことをし続けているのかも。

抽象的すぎず、具体的すぎない、心理学の中範囲理論。そんなことを考えてみたりして。