場面想定法はもうやめませんか

論文の中に,場面想定法ってでてくるとそれだけで萎える。

要するに「こういう状況だったら,あなたはどうする?」というのを聞いて回答を求める手法(?)なわけだけど,これをデータとして扱う心理学というのは,どうにも根拠が貧相な気がするのです。

そもそも社会心理学は行動の科学を標榜していたけど,行動がでてくるのを待っているのでは研究が進まないので,「態度」という専門用語を作り出した。これは行動の準備状態とかいって,「〜するつもり」のような意図,事前にもっている情報・感情のことだけども,それでも実際行動するかどうかとは違うわけです。態度は社会心理学にとって重要な研究ツールなのだ!といっても社会心理学者はちょっと冷や汗をかいてるぐらいがちょうど良かった。

ところが,態度測定はそもそも想定された心の状態だったので,それを押し進めて状況まで想定させた上で反応を求めることを考えだした。これが場面想定法。「これこれこのような状況を想定してみてください,その上で,あなたならどうしますか。」って,想定させる状況が込み入ってくるほど,何について答えさせているのかが変わってくるのである。

 

「あなたは大学一年生で,恋人とのデートの約束をしている日に,先輩から呼び出されました」とかいった状況を教示されて,反応を見るわけだけど,例えば俺(37歳,サラリーマソ)は大学一年生じゃないし,大学一年生のときに恋人がいなかったし,呼び出してくるような先輩もいなかったわけで,そういう状況を想定しろと言われたら,そういう状況にいたキャラクターを想定する。つまり,俺の態度ではなく,想定された架空のキャラクターの態度を回答することになるわけです。

回答者の多くがそういう想定されたキャラクターの態度を回答していたとすると,得られた回答は広い意味でのステレオタイプ的態度であって,実際の行動でも何でもない。社会心理学は常々大学生心理学だと揶揄されているが,それ以上にファンタジー心理学になってしまってるよ。

恋人がいない人に,「数年の付き合いで同棲している彼女がいると想定して答えろ」といっても,正しく想定できていると思う?

大学生に「株で取引して・・・」とか「転職したときに・・・」とか想定させて妥当性があると思う?

 

多分この批判は前からされている古い話だと思うんだけど,最近,どうにもこの「想定させる状況」が行き過ぎているような気がして,「ファンタジー心理学,ステレオタイプ研究になっちゃってるかも」という自覚がない研究者がいるんじゃないか,とも思うわけです。

それでもいい,と思ってやっているのならいいんだけど,自覚がないとなると,それは不自由で恥ずかしいことだよ。

 

ひとつ思うのは,この方法に「場面想定法」というネーミングがついて,このネーミングが一定の支持を得て,定着したことの問題なのです。俺が大学院生だったころは場面想定法って名前,そんなにメジャーじゃなかったよ。むしろそんなことしてどうするんだ,という風潮の方が強かったように思うけど。最近研究の道に入ってきて,場面想定法で,という手法名を聞いて「そういうのがあるのだ」と疑いなく受け入れてしまうことの弊害がある。昔はちょっとアヤシイ手法だと言われていたんだよ,計量経済学や計量社会学の人からみたらなんて言うだろうね?という反省なしに,「だってみんなやってるんだもん!これでいいって教わったもん!」と逆ギレされるのではないかと思っているのです。

研究手法として名前がつくのであれば,そこに正しくて新しくて妥当な技術が含まれていなければ(それまでの技術とどこが違うのか,が明らかでなければ),オッカムの剃刀になってしまうよ,ということを誰か言わないといけないんじゃないか,と思ってこの記事かきました。

 

この「新しい研究名がついて何となくそれっぽくなっただけなんじゃないの」,という懸念を(俺が)抱いている例として,「(重回帰分析の繰り返しとしての)パス解析」,「スノーボール・サンプリング」,「グラウンデッド・セオリー・アプローチ」,「PAC分析」をあげておきます。多分他にもあるんだろうな。

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