心理学的であるということ

昨日の今日で,修論審査会の日。朝9時から15時般ぐらいまで。
幸い,自分が副査になった修論の出来はそこそこ良かったので,それほど負担には思わなかったけど。

中に,どのようにコメントをつけたらよいのか分からないものがあった。
率直に表現するなら「こんなの心理学的な論文じゃない」っていう感じ。
審査会で感想を伝えても仕方がないので,これを指導的コメントにどのように変換すればよいのか。本質を欠くことなくどのように「俺の考える心理学的であるということ」を伝えればいいのか。すごく悩みました。

つまらない結論だけど,コメントできたのは,方法論をもっと丁寧にAPAの基準にそうように,ということだけ。個人的には,多少型破りであっても本質的に面白かったらそれでいいと思う。しかし,今回は方法はもちろん,アプローチの仕方,論じ方,発表の仕方・・・すべて心理学的ではなかったのだ。

何かであることを伝えるのは大変難しい。何かでないことを伝えるほうが,よっぽど簡単だ。
それは統計的仮説検定のプロセスと同じ。関係があることを言うのは難しいが,関係がないことを示す方が簡単なのである。

ともかく,自分の質問力のなさ,専門性の低さについて少しへこみました。

ところで,今年は修論や卒論を見ていて思ったのは,あるいは同時並行的に原稿を書いていて思ったのは,大事なのは本を読むことだということ。

物を書くということは,書きたい内容とそれを表現する軸・基準・切り口が必要。その書きたい内容が,もちろん心理学の場合実験や調査でデータという形をとる。もっとも,これは内容を表現するための,物をいうためのツールであって,このデータを使って「いいたいこと」をいわなければならない。その言いたいことの内容は,完全に自分の中から生まれることはなく,自分の中に取り込んだストックから生まれる。

卒論の場合,たくさん本を読んでストックをためて,それを論理的にまとめるだけでもよいと思う。その人の興味関心にそって情報を取り入れることが,ゆくゆくは表現する次元の生成に繋がるのだ。その人がそのような情報を集めたということは,その人のオリジナリティをそれらのストックで編み上げたということ。読んできた本がそのまま,その人のオリジナリティになるのである。まずは,ね。

修論の場合は,それに論じる軸を持ってこなければならない。論理的な構成の仕方にも,さらに洗練が必要だろう。卒論の場合は「表現したい」という勢いを評価するが,修論の場合は出ててきた結果を評価するので,頑張ったから認める,ということはしない。

博論の場合は,自分オリジナルの軸を作り上げなければならない。その後の(学者)人生を「この切り口でe切って生きていきます」と断言できる価値観の呈示が,博士論文というものだ。俺の場合,それは「何が何でも固有値」だった。
博士が悔いを認められた人間は,自分の発言とその切り口で物を語ることについての責任を負うことになる。学部やマスターの学生にはそこまでは求めないけど,その道筋だけは事前に知っておいてほしいと思う。

学部生はみんなかわいい。今年の四年制はチューターをしていたこともあって,思い入れは格別だ。
来年彼らの多くは大学院に進学してくる。
今まで通りの付き合いが出来ないことが,嬉しいような悲しいような,である。