19時からの講義は、大学院生対象の自主的勉強会である。お金にはならないが、趣味なので楽しくて仕方がない。
自主的な勉強会なので、出席者は基本的に真面目に学ぼうとしてくれている。こちらも教え甲斐があるというものだ。
余談だが、女性ばかりである。このことが要因かどうかはわからないが、みなものすごく丁寧な口調でお話になる。よく「ものすごく基本的なことをお聞きするようで恐縮なのですが〜」という接頭語をつけられてから、問われる。本当にものすごく基本的なこともあるし、意外と発展的なこともあるし、なによりミスター・因子分析みたいな私は、修飾語を基本的に誤差(=有意義な情報ではない)だと判断するので、つけてもらってももらわなくても心象は変わらない。
さて、今日はそんな大学院生達と一緒に話をしながら移動したのだが、移動中「小杉先輩は気が長いのですか?」と聞かれた。
気が長い?そんなふうに考えたことがない。
自分の性格をどういう風に紹介するのか、と重ねて問われたので、ひねたヤツですと答えておいた。
基本的に怒るよりも、呆れたり、見下したりするのである。親にはよくこの体を怒られたものだ、あんたは人を小馬鹿にしくさって、と。しかし、そうすることで自分の心の平静が保たれ、持たざる者には与えようという基督教的精神が発動するので(マスタリー・フォー・サーヴィスとやらですよ)、対外的には「怒らない、気の長い人」と写るのかもしれない。
そもそもの発端は、「いちいち質問してきやがって、と腹が立つことはないのか」と言う点である。
考えてみたところ、腹が立つときと、立たないときとがある。
この違いは要するに、それが挑戦的な問いか、そうでないかという私の受け取り方による。
挑戦的な問いとは、相手が全く知らない情報について、「お前は知ってるのか?知っているんなら答えてみろ!」という問いである。これには「なにくそ、こたえてやらう!」と思うので、怒りは全く生じない。本当にパソコンを知らない人が、「私のキーボードに”q”がない!」と言ったとしても、「よくさがせ(笑)」と思うぐらいで、腹が立たない。相手の知識レベルの絶対量には左右されないのである。私の見積もり=この人ならこれは知っているだろう、知らないだろう、というレベルから比べて、質問のレベルが上位にあればよろしい。
そうでない問いとは、質問者が知らないことではあるのだけど、本で調べたり、ネットで調べたり、誰か他の人に聞くのは面倒だから、ついでにこの際聞いてやろう、という問い。これは「お前でいいや、答えてみろよ」と見下されている感じがするので、「何で俺様ほどの優れたる人間が、貴様のような腐った心根を持っている人間に対応せねばならぬのか」と思う。
もちろんこんなに激しくは思わないんだけども(笑)、究極的にはそういうことなんだろうな、と帰りの電車の中で熟考して納得した。幸運なことに、考え至るのに時間がかかるようなので、即その場でキレるということはあまりない。
また、これは全く私の抱く勝手な印象に依拠するものなので、どういう言い回しをされても、どういう態度で出られても、変化はないだろう。
ちなみに、今まで一番腹の立った問いは、大晦日に携帯電話が鳴って「一太郎ファイルはワードで開くのですか」という学部生からのものだった。明らかに回答者が私でなくても良い。
ちなみに、怒りの対象から完全に外れている人が数人いる。
妻をはじめとして、私が完全に心服している人達です。