トリック劇場版

前にDVDをレンタルしてきて、見たことがあるんだけど、何となくテレビでやっていたトリック劇場版を見てしまった。

その中で、いつも私が授業で使う「四つの帽子」ネタと同じことをやっていた。

三人の神様の名を語る不届き者がいる。偽神様を暴き出そうとするシーン。
『泣いた顔をした鬼の地蔵が二つ、笑った顔をしたものが三つある。これをひとつずつ、箱に入れて三人に渡す。渡された人は、中の鬼が笑っているか泣いているか、透視してあてて見せよ!』というもの。主人公は三番目に箱を渡される。
しかし、ここにはミソがあって、最初、二番目に渡された人は、後の人が何を入れられているかをのぞき見することができるのだ。
この不利な状況の中、主人公(仲間由紀恵)はどうやって自分の箱の中身を当てることができたか?

ネタをバラしますと(嫌なら読まないで)。

誰も「わかった」という人がいないので、主人公は自分の持っている者が笑い鬼だということがわかります。

最初の人がのぞき見をしたとき、後の二人に泣き鬼を入れているところを見たら(泣き鬼×2)、自分のが笑い鬼と即答できる。即答しないので、後の二人に入っているのが両方泣き鬼ということはない。

「両方泣き鬼」という可能性が除外されたので、残るのは「両方笑い鬼」か「泣き鬼と笑い鬼がひとつずつ」になる。

二番目の人が見たのが泣き鬼なら、二番目の人は自分が笑い鬼だとわかるので即答するはず。しかしそれがないということは、二番目の人が見たのは、笑い鬼が三番目の人に入れられるシーン。

ということで、主人公はまるっと答えをお見通し−

なのだが。実は主人公を陰で支えるヒーロー(阿部寛)がいて、この推理をしてこっそり主人公に教えるのである。

で、主人公は見事答えることができて、神とあがめられるのだが、その後のシーンで軽くこう言うのである。

「(考えてわからなかったので)確率が高い笑い鬼と答えただけだ」

ま、映画として、エンターテイメントとして考えればこれはこれでいいのだが。
世の中得てしてこのようなことがまかり通っている。つまり、しっかり考えれば正しい答えにたどり着けるのだが、しっかり考えなくてもいいや、とする空気。それっぽいことがやってあればいいんだろうとする空気。難しいことはどこかの誰かが考えてくれるさ、とする空気。

つまり、私が一番忌み嫌う空気。

これって結局、作り手にバカにされているんですよ、視聴者が。
テレビは得てしてこういう作り方をしていて、どこかで聞いたことのあるような、曖昧な言葉を繰り返して、みんなが納得しやすいような答えを出す。

厳密に考えなければならないんだろうな、本当のことはどこかにあるんだろうな、と視聴者はうすうす気づきながら、考えるのが嫌だからわかったような気がする。わかったことにしておく。

プロデューサーが「これが欲しかったんだろ」といってる顔が見えるな。
日本のマスコミは視聴者をバカにしすぎています。

今日、バンキシャ!という番組もちらっと見ていたのだが、これなんかひどいね、それの最たる例ですな*1。とある事件を取り上げて、勝手にストーリーを作って、その視点からものを見ていくので、「そもそもそのストーリーが違っていたらどうするのか」という疑問を持たせてくれない。そのストーリーも、起承転結がはっきりしているような、いい出来なのならエンターテイメントとして見てやるが(決してニュースではない)、それすらグダグダだもんなぁ。今日は飲酒検問の話を取り上げていたが、ちょっと目立った事例をいくつか紹介して、コメンテーターに「飲酒運転はいけない」という台詞を語らせて終わり。なんだそりゃ。

その昔、指導教授が「テレビは一億総白痴を狙っているとしか思えぬ」という発言をしていたが、この台詞が骨身に染みてわかる今日この頃。

昨日と同じようなことを書いてるな、俺。

*1:福澤朗の出ている番組は得てしてそんな感じがする(笑)