他人の思考

 鞄が修理からあがってきた。

 持ち手のところが本革になっていて、「かなり頑丈にしつらえましたよ」とのこと。
 全体的なデザインは狂ってしまったが、機能的には申し分ない(だろう)。
 僅差だが、機能性とデザイン(の一部)とでは、前者が勝る。

 なんせ、お気に入りの鞄なのだから。

 今日は久しぶりの研究会出席。

 昨年秋頃から、学位論文に集中するためほとんど出ていなかったが、この三月で自分のやれることも終わったので、春から徐々に社会復帰していこうと思っている。で、研究会に出てきた。

 テーマは自分とあまり関係ないものだったが、こういう会では自分以外の研究者がどういう反応をするのかを見られて、勉強になる。あぁ、そういう質問をするのね、そういう疑問がわくのね、そういう観点から考えるのね、ということがわかるからだ。
 学問業界においては、質問することによって、質問する側・される側の質がわかる。質とは優秀さと言い換えて良い。

 私の評価基準はただひとつ。その質問が私の頭の中から出てき得るかどうか、ということだ。
 出てくる可能性がある場合は、特に何とも思わない。
 出てこない場合は二種類の評価があって、低レベルすぎて(=科学的貢献度が低くて)出てこない質問の場合は、質問者に気を許すことにしている。ただ、回答側がうまく回答した場合、その技術力を見習おうと思う。
 逆の意味で出てこない、つまり、私が全く思い浮かばないような、且つ、価値ある質問が出た場合は、質問者を羨むことにしている。羨むというか、恨むというか、尊敬するというか(私は基本的に負けず嫌いなので、素直に尊敬しにくい)、それをします。

 今日もなかなかイイ質問が出たように思う。
 自分では何でそういう疑問がわかなかったのかな、と思うと、自分の未熟さを呪いたくなる。

 ところで、今日の聴衆の中で、複素空間とか非対称行列のことに思いをはせていたのは私一人だったと思う。
 これは他人に尊敬されるというより、ヤヴァイ方に入っているのだと思います。その程度の自己診断能力は備えている思考機械。
 俺、ちゃんと生きていけるかなぁ。