修論の査読が終わった。今年は日本語に問題がある学生がいなかったので,文章自体はスラスラ読め,誤字脱字を指摘する必要が少なくてすんだ。
また,事例研究があったので統計的に明らかな間違い,表記ミス,分析不足をしt計剃る必要もなく,そういう意味ではやりやすかった。
もちろん,そういう研究は問題意識のたてかたや分析方法を通読し,「面白いのかどうか」という根本的な問いに基づいて評価するので,学生にとってはそちらのほうがハードルが高いとも思うけど。
で,調査研究の場合。
尺度を使って測定し,相関関係を見るというスタンダードなやり方なのだけど,最近どうしても引っかかることがある。
それは,「切り取ってくる世界はそれでいいか」という感覚に基づく。
心理尺度で測定すれば,何らかの反応は得られるし,その尺度上で比較検討することができる。
逆に言えば,無理やり反応させることになるし,その尺度上でしか検証できない。
だからこそ,用いる調査票には,問題意識に関わる心理変数,世界とか論理空間とか問題空間と呼ぶべきなのかな,が全て含まれている必要がある。
例えば学校不適応について研究したいとする。
不適応尺度について測定すると,不適応の程度が測定される。その後相関係数を出すと,不登校の程度が高い人はどういう傾向があるか,ということが示される。しかしその得点を標準化して比較してしまうと,不登校傾向の高低でしか人が表現されない。
不適応尺度は「学校が楽しくない」「家を出たくない」というような表現で構成されていて,ソコから出てくる因子に命名するときは,どうしても「不登校傾向得点」といったネガティブなことになるだろう。それは合理的だ。
こういうのを見ると,しかし,回答者に「人は多かれ少なかれ不登校傾向がある」という先入観で評価しているように思える。いやいや,楽しく学校に行ってるよ,という人に対して,心理学者が「そんなことはない,人は多かれ少なかれ不登校なのだから,本当のことをいえ」と迫って,「そういわれたら,行きたくない日が一日もないわけじゃないけどさぁ」という反応を捕まえて「ほら見ろやっぱり不登校だ」と言っている,そんな感じに聞こえるのだ。
これはたまたま,今回こういうテーマで修論を書いている人がいたからこの例を出しただけで,その研究だけが悪いと言ってるわけではない。心理学的研究,調査的研究はなべてこういう傾向があるのだ。
どのような尺度を使っても,欠損値でない限り何らかの反応があって,それはその釈度でしか評価しない,その釈度上に態度のほうを合わせろ,といってるような。
尺度だけでなくて,臨床的な研究はその傾向が強くて,人はみんな心に悩みを抱えている,という前提から入って研究している例が少なくないように思われる。
これを,心理学研究の「呪い」と呼びたい。不登校になれ,不適応になれ,抑うつ傾向を示せ,という呪いを被験者にかけているようなものだ。
そして,反対を承知であえて言えば,「お疲れ様です!」という挨拶に同じものを感じるのだ。「この世の中で,なんの苦労もなく楽しく過ごせるはずがないから,その気持ちを先に汲み取って『お疲れ様です』」という感じ。
呪いの言葉と言わずして,なんと言おう。
でも,そういうネガティブなことがあっても,抱えていても,我慢して頑張って「平気です!」という意思に,人間の美学があると思うのだ。それを「我慢しなくていいんだよ」「頑張らなくていいんだよ」と話しかけるのは,美学を出させないぜ?という姿勢でもあろう。
もちろん,頑張りすぎて潰れてしまったら元も子もない,という話はわかる。
研究についても,いや,研究というのはそういうものだ(関心相関性)といった原理的な話から,標準化得点ではなくて素点を従属変数にすればいいよ,という技術的な話まで,わかっているつもりですよ。
それでもあまりにも世の中にネガティブなメガネが掛けられているから,そもそもそんな先入観がなかった頃を思い出そうよ,といっていくことも必要なんじゃないの,と思っている。
北風はバイキングを作ったぞッ!(by荒木飛呂彦)