その人(Aさん)の豊かさは以前のまま100であり,私の豊かさが震災によって20になった場合,Aさんが100を120にし。120-100=20の20を私に支援してくれ後すると,Aさんにとっては20%アップの試みだが,私にとっては20が40になる100%アップなのである。つまり,支援する側は小さいと思っても,される側にとっては大きいのである。避難所のおばあちゃんが学生ボランティアにいう「勉強しいや」の言葉が意味しているのはこのことなのだが,被災者のまずもっての目標は以前んのAさんなみの100なのである。決して震災のあと残ったAさんの100と私に残った20の合計たる120を二分した,Aさんも私も60という平等性を求めているのではない。つまり,Aさんの100の状態を60にするといった単式簿記的な判断を被災者名することはできないのである。この意味で,「自分のことと受け止めて!」の言葉に込められた被災者の願いは,切実なアピールなのである。
本書より引用。この文言に,目が開かれる思いがした。
自粛することは被災しなかったAさんの100を80にして,被災地に20を送ることでしかなく,それでは全体のパイはかわらない。
日本に今足りないのは,人口が絶対的に減っていくことに起因する内需の縮小であって,税収を上げることで回復するとは考えられない。
そして,カウンセラーを志す学生たちも,是非考えてみて欲しいのだ。
自らが強くなることで,全体が良くなることを。
自らが手出できる,いわば見下した他社に施しをくれてやることで,自己満足することの浅はかさを。
イチローは,チームが不振なときほど,個人のプレーにこだわろうとする。個人の質を保とうとする。
チームになる前には,個人の質が求められていたはずだ。個人の質が高くなって,余裕ができるのでチームプレイが出来るのだ。チームプレイがうまくできないとき,個人に戻ればいいじゃないか。それを「独りよがりだ」とチームを前提にしたネガティブなことと捉えるのは,集団力学が悪い方向に働いたときの典型例なのである。
じつは,それは当然であり,いいことなのだ。少なくとも,維持可能な(sustainableな)方略であり,一時的にまとまったコンテンツ,パターンとして成立し得ない人生,生活,日常において,大事なアプローチなのである。
学問として,研究対象として自称をとらえようとする場合,どうしてもワンショットの,まとまりのあるコンテンツとして提示し,そこに原理,理論,方法,モデルが示されている必要がある。
実の生活は,もっと「どうしようもない」ことだらけである。
それに真面目に向き合わなければならない。
具体的な事例を研究対象にして,理想を追い求めたが,現実の壁に阻まれてうまくいかなかったところもある,というのなら,良い。
具体的な事例を研究材料にして,どうせ結果は同じだからと適当な研究をして適当な結果を出し,いたらないこともあるよね,というのは,駄目。
ポイントが,言いたくはないけど,研究者の「生き様」にかかっているのだ。
本当のところは評価のしようがないんだけれども,それを追い求めなければならないのだ,少なくとも個々人は。
そしてそれは研究のような「コンテンツ」だけでなく,人生においても同じスタイルが必要なのだ。