報われない努力と社会-個人の対立軸

先日,卒業したゼミ生の八割が集う同窓会的なものに参加してきた。
ゼミ生じゃないのもいたので、正確に同窓会と言えないもどかしさ。

まぁなかなかざっくばらんに会話できるメンバーで,ほとんど同期の友人感覚でしゃべってました。

で,何かの流れで矛先がこっちに向いてきて。

努力しても駄目なことってあるのよ,という話になった。
それはもちろん,そう思う。賛同。大学までの「学力」で戦う場所と違って,仕事や恋愛の世界では努力が成功,報酬に結びつかないことがある。それはわかってる。
でも,努力はするしかないじゃない。

というと,「努力して勝ったから努力しろとかいうのよ」と反論された。

そこで,ふと思った。

俺は勝ったのか?俺は努力して成功したのか?まだだというのなら,もっと・・・どうなりたいのだ?

いや・・・俺は現状が成功だとか勝ったとか思ってない。少なくとも,まだ終わってないだろ。過去形ではなせる歳じゃない。
その場では最年長で,大学に勤めていて,家族もあって,というのは「勝ってるヤツ」と思われるかもしれないけど,自分の中では「アガリ」の感覚はないのだ。
これは当たり前じゃないのか?うぬぼれているのか?

言いあぐねていると,「じゃああんたは学者としてどうしたいんだ、何がしたいんだ」とか問われた。

ふぅむ。久々にクリティカルにつっこまれたなぁ。
最近だんだん、問われる方から問う方に回って来ているので、自分の根本問題に対する直視を避けていたようだ。これはいかん。
改めて問われると,厳しいものです。

その場で答えたのは,次のようなこと。
「俺がしたいのは,対立せざるを得ない社会と個人があるなかで、社会の側からできるだけ個人にとって幸福なシステム・デザインを提供したい」

そこからはお酒も入っているので,声を荒げながら様々な意見交換。

  • 成功しなくても努力はしなければならないのだ。それは社会が決めたゲームにみんなが乗っているからだ。
  • 個人には気持ち,と言うのがある。それに共感する自分の気持ち,というのもある。でも,それにながされちゃいけない。
  • でも個人の側には努力するという選択肢があったことすら知らないやつがいる。そして経験的にそれは学歴で弁別できる。
  • みんながみんな社会の側の視点をもっているわけじゃない。
  • 社会のために個人は死ななければならないの?
  • どちらもわかるので板挟みになって、私には選べないという学生も。
  • 学歴は従属変数でしかないのだけど,デモグラフィック変数として外的に介入するのにはわかりやすいフラグ。
  • 何かを手がかりに,どこかに立脚して「決断」をせねばならん、するのが大人だ…

というような話を,ぐちゃぐちゃと。

研究や教育というのは面白いもの。
研究は,やればやるほど自分が無力であることがわかり,自分より有能な人間が多いことに気づかされる挫折の連続。その中で,自分がわかるもの,自分が(例えば自分の学位にかけて)言えることはこれだけだ,というのを探し続ける作業。あるいは,求められればそれを表明しなければならない。

教育というのは,嫌なことを無理矢理やらされつづけることであり,教育が済むとあれほど嫌だったことが「嫌ではなかった,むしろ良かった」と反応するようになること。

大学という研究と教育の場にいると,この業の再生産みたいな作業を続けざるを得ない,という感じと戦うことでもある。だから,達成感はなかなか得にくいものだ。
それを得てしまうと,学者としては駄目だとも思うのだ。

久しぶりに,個人,社会,心,システム,自分の人生について考えるような飲み会だった。
こんなクリティカルな宴会ってあるかよ(苦笑)

まぁでも,考えさせてくれるメンバーに恵まれたことは,自分にとって何よりの宝だと思う。