紀要論文ってご存知ですか。
大学関係者ならみんな知ってますが、大学がその大学の教員の論文を、ノーチェックで載せてくれるところです。
大学教員が言い大意ことを誰にも邪魔されずに言える場所なんです。
大学教員=研究者は、言いたいことを言うときに、基本的には学会誌に論文を投稿します。これは査読つき論文と言いまして、投稿したらすぐ掲載される訳じゃない。学会員にチェックされて、載せてもいいような体裁と、その学会が認めるレベルの内容であると判断されたら掲載されます。掲載まで一年から二年ぐらいかかるのもざらじゃない、そういう世界です。
一方、紀要論文はこういうチェックが働きません。言いたいことが、言いたいまま載ります。スピードも早いです。夏頃書いて、冬頃載ります。でも、だれもチェックしてませんから、中身は当たり外れが大きい感じです。
大学教員の評価は、チェック有り論文の本数で決まります。紀要のような、チェックがない論文は何本書いても評価されません。そりゃそうです、何かの間違いで大学教員になっただけのカスでも、ノーチェックで言いたいことが通るわけです。その学会の通説でも何でもない、下手物論文が平気で載る。これも紀要の怖さです。
私は学生に、紀要論文をゼミで発表するな、と言います。カスが載ってる可能性が高いからです。チェック有りの、学会誌論文でも批判的に読みます。学会誌は最低限を保証するだけであって、最高品質を保証するものではないからです。いい物かどうかは読者に任せますよ、というのがチェック有り論文。いい物である保証すらしないのが紀要論文。
こういう風に考えると、紀要論文の意義が分からなくなるのではないでしょうか。なんでそんな物があるのか。
研究者が、査読に耐えられそうにない悪い内容の論文を、「一応ことしも研究してましたよ」というアリバイ作りのために利用する、そんな論文じゃないのか、と。
実は、そういう側面はあるのです。
でも、私が言いたいのは、もっと積極的な側面。すなわち、学会の多数派には認められないだろうけど、思いつきのレベルで光っているのもの(素敵な思いつき)、学会誌の制限(書式やページ上限)にとらわれない自由な意見の発表場所、としての紀要のあり方なのです。
誰にも制限されない表現、というのは大事なことです。極論すると、例えば社会心理学者は、社会心理学会に所属している者にとって社会心理学っぽいと思われがちな、それっぽい論文を書いている人、と定義されます。つまり、時代や学会の主流に乗らないことは書けない。言えない。そういう制限の中で、物を言ってるわけです。これでは、社会心理学会の根本命題を覆すような意見の発表は出来ない。だって、どんな社会心理学者にも認めてもらえないからです。評価する方は、コレを認めちゃったら俺の首が飛ぶ、というバイアスが係ってないとは保証できない。
だから、そんなしがらみから完全にフリーな発表の場所が必要なんです。それが紀要の主たる役割です。
ただ、紀要に書くためには、大学に雇用されることが条件になる。大学院生や、在野の研究者には敷居が高くなる。これはおかしな話です。是正すべきだ。
また、好き勝手言えばそれが全て業績になる、それもおかしな話です。言った回数の問題ではなくて、例えば、社会的な地位はないけれども多くの在や研究者が評価する、そういう人は研究者として評価されるべきです。もちろん、多くの研究者に支持される研究者はすごいことですし、その人が支持する人間は新しい人材であるに違いない。
残念ながら、大学業界も業績主義、客観主義です。どんな学会でもイイ、査読付き論文が何本あるかでその人が評価されます。
これは言い方を変えると、反学会主義的な人は何の仕事ももらえないことになります。学会を根本的にひっくり返そうというナリハラナリユキ博士のような存在は、本物かどうかではなくて排除される。「多数派と仲良くできないから」という理由で、です。
これは世界的なレベルでの損失ですよ。
さて、私が提唱したいのは、フリーの論文投稿システムです。
イメージははてぶ。
要は、研究者が自分の論文を自由に投稿するのです。紀要のように、それは自由に。思いついたことを書いて、まとめて、読みやすく加工して提出します。面白いと想う人は、「イイネ!」ボタンを押す。あるいは、はてぶのように、スターマークをチェックする。
で、多くの人が「イイネ」と思った論文が常に上位に表示されれる。そういうシステム。
そして、それが多くの研究者にとって、業績になればよい。
投稿論文(査読付き論文)は一本も書いてないけど、自分のある論文は、500人に「イイネ」と言われたよ。あるいは、5人の専門家にイイネ、と言われたよ、というのがそのまま加点されて業績になる。それでイイじゃないですか。
評価者の重みによって加点したり、評価者の分散(如何に様々に人に評価されているか)によって評価するでもいい。そういうソーシャルな評価を表面化して評価するようにすればいいんだ。
今もやってなくはない。人事が起きるときは、裏側でそう言うことをやるわけです。たとえば心理学の世界では、2〜3ステップも行けば誰かが応募者に行き着く世界なんだから、どうせそうなってる。それを表に出せばよい。みんなで楽しめばいいんですよ。
端的に言うと、そういうソーシャルな評価の場としての「プラットフォームの成立」。紀要論文をまとめるプラットフォームが完成することです。
ついで、そのプラットフォームの上で生きるキュレーターが存在すること。サイエンスライターの仕事をオンラインでかつその人の視点で成立させ、あの人が紹介する論文は全部面白いよな、と「学術論文を庶民のレベルに返す仕事」を仕事として成立させること。日本はそれが一番弱いと思うからです。これは学会の人間にも庶民にもトクするお話ですよ。
誰かがやってくれないかな。
CiNiiやResearch Mapがオープンな論文公開のプラットフォームとして熟していく中に、このルートが生きていれば幸いです。