講演会と大学と教育

今日は広島大学の栗原先生による講演会。大変,大変勉強になった。
教える教員側,教わる大学院生達,学部生達にとっていろいろ考えさせられる数時間だった。
整理がてら,考えたことを網羅的に書いていく。

教育学部の中での心理学,臨床心理学の第一種指定校としての立場で教えるうえで,「学校臨床と病院臨床は違う」ということをどう捉えるか,考えなければならない。

今日のお話は学校臨床の話。特に,臨床心理士がSCとしてどのように学校に関わるかということ。

学校臨床で求められているのは,SCとして何が出来るかという「立ち位置」の明確さ。これが,力量のないSCだと明らかにすることが出来ず,一日中「相談室」に引きこもって高い時給だけ貰って帰ってくる,という明らかに人材とお金の無駄遣いをすることになる。

むしろ教員のOBなどのほうが,良きSCになることもある。この,良き実践家はシステミストであるそうだ。学校の仕組み,文化を理解しているので,システムとしての視点を持って当たることができる。本人たちは必ずしも自覚はしてないだろうけど。システム的視点というのは,狭義では,問題に直接介入するのではなく周囲の環境を整えることで全体性を整えていくというアプローチ。この意味で,「相談室」を学内に解説するだけのミニクリニックモデルは,現場では使えない。臨床心理士の専門性が逆にじゃまになることがある,ということでもある。

結局,現状として,使う側のSCに対する無理解と,使われるSC側の不甲斐なさのおかげで,SCが不当に低い評価をうけている。今後これをどう打破していくか・・・。

さて,これらのことについて,臨床心理士の資格を求める人に自覚はあるか。
あるいは,臨床心理士指定校に自覚はあるか,実践できているか,ということを顧みざるをえない。

自分の経験でカウントすると,臨床心理士を目指す人は,アブノーマルな人間に興味がある人,悩んでいる人に共感したい人の二種類に分かれる。割合は1:9ぐらい。

前者はともかく,問題は後者の,「共感したいという気持ち」は,お金を産まないということだ。自分の欲望,希望でしか無いわけである。それを生業にしたいというのなら,自分の希望を超えて他人にアピールする,お金をもらう対価を相手に渡すことができなければならない。このアタリマエのことをしっかり把握して置かなければならない。自分も悩んでいた人だから,力になる側になりたい,というのはスタートポイントとしては良いが,そのままではダメなのである。

このナイーブな感覚から脱却することが大事であり,それを学ぶことが心理学の最初である。心理学は,基本的に人間の過ち,間違い,不安定さをいかに知るかということから始まる。知覚はもちろん,記憶,学習,認知プロセス,態度,行動など人間に関することはほとんどエラーを含んでいる(あるいはその可能性を否定出来ないことだらけ)。
「他人を助けたい」という気持ちすら,なんかの勘違いである可能性が高い。まずそれを超えなければならない。

しかし,心理学に限らず,学問とはそういうものではないのか。

大学という場所で学ぶ「学問」の良いところは,抽象化するロジックを通じて,一足飛びに理解をすすめることである。実践する中で分かってきたことを,言葉で表現してもらえると,その文章を読むだけで実践できるようになる。時間を越えることができる*1

どのような入り口でもよいから,先人の思想を知ることで学問の深さを知り,自分の浅さを顧みて,そのなかで自分の立ち位置を決めることしか出来ないのだ。これが大学教育のもっとも一般的な機能であろう。

社会に直接求められる実践力みたいなものは,大学で学ぶこととは関係ない。無いからこそ,根本的な人間形成ができるのだ。

そのために,学ぶ人として「自分の殻を壊すこと」を厭わない態度が必要。教える人は,先を見つめて学生の殻を壊していかなければならない。

*1:そのために,書かれた物が分かりやすく論理的である必要がある。