FD会議についての意見と愚痴

今日は18時スタートの会議に出席。三つのキャンパスをビデオでつなぐ会議室だが、機械の調子が悪くて十分ほど遅れてからスタート。

先に断っておくが、私はグラデュエーション・ポリシー(GP)やカリキュラムマップ(CUM)のアイディア、策定に賛成です。ただ、少し意見がございます。

解説しておくと、大学にはGPが、学部・学科・コースごとに色々設置されている。かつ、大学には様々な講義が、学部の中でも、共通教育としても存在している。であれば、学部・学科・コースが作ろうとしている人材のエッセンスは、どの講義でどのように補償されているのかの対応が必要。その対応表がCUMというわけです。資料には、行方向に科目名が、列方向にGPが並んでいる(正確には並んでないが、そう対応するようになっていたものと思われる)。で行の欄内に科目の一般目標と到達目標が書いてあって、これがどのGPと対応しているか○を書いて提出しろと言う。

ただこのGP、学士力保障のために、やれといわれてやったという感が丸出しで、学部のGPなんかはかなり当たり障りのない人間像を描いている。あるいはミクロレベルのGPは上位レベルのGPと関連がなかったり。なんせ、ひとつの科目が一つ以上のGPに該当しないと、その科目は存在していては駄目だというのだから。結局、抽象的なものにならざるを得ないわけです。そうするとあれやこれや、全部に該当してしまいそうな勢い。

受動的に・当たり障りのないものを、いっぱい作っちゃったってことだね。

ここはひとつ、スタッフの意識をひとつにして、ウチのコース、学科、学部を出ればこうなりますよというGPを積極的に作るべき。ただし、どうやってもひとつにならない!という範疇はあるわけで、その時はそのレベルのGPを作らない、ということも考えるべき。例えばA学部のB学科の中には、X個のコースがあるけど、学科レベルでのまとまり(GP)は少なく、A学部を出ると3パターンの人間になる可能性があります、とか。こういう、「押さえつつ攻める」、というやり方があってしかるべきだと考えます。今は「とにかく全方位に拡散しつつ守る」みたいなやり方だから、抽象的にならざるを得ない。

ただし、小さく小さくまとめてしまうと、今度は逆の問題ができる。
ある人文学部の先生が手を挙げて質問されたのだが、ある科目がその一般目標・到達目標とどのように対応するか、というのがキッチリきまっていると、シラバスの自由度、教員のオリジナリティが減るのだがそれでも良いのか、という問題。つまり、良い講義にしたいので、今年は内容をがらりと変えてみよう、というFD的挑戦ができなくなる。また、教える内容がきっちり決まっているので、ソレが教えられる人であれば誰でもよいということになる。つまり、あの人が居る大学に行きたい!というのは無くなるってことです。大学教育はそれでいいのか。俺は駄目だと思います。それでいいのなら、高等教育は全部放送大学にしてしまえばいい。その代わり、大学教員には研究費をくれよ、空いた時間でたっぷり研究するんだから。

結局、完璧に構造化することは自由度を失うことでもあるわけです。システム論の基本です。であれば、少なくとも30%の自由度は持たさなければならない。できれば50〜70%は。その昔の大学は100%だったわけですが、これをいきなり0%にする、というのは流石にやりすぎ。

学ぶ側や社会の側も、大学を出る限りには学士力を100%保障せよ、というのではなく、まともな人間かそうでないかは半々ですよ、でてみないとわからない、というものとしての大学のあり方を受け入れて欲しいと思うわけです。

ちなみに、上の質問に対する答えは、「それもふまえて皆さんで議論して頂きたい」と。だからFD研修会なんだと。
その割には、しっかりと6/30までに提出せよ、という期限が切られました。強制的な課題が出る研修会・・・仕事じゃないのかorz

これはFDの第二の問題。インセンティブが何もないのに、なんでそんなことせなあかんの、とみんな思っているわけです。私にしても、単純に仕事量が増えるわけで、なんでそんなことをせないかんのか。
確かに、教育デザインが綺麗に整っているのはいいと思うけど、君それ今せなイカンか、という話です。

私は冒頭に宣言したように、構造化されているのがいいと思うし、それが時代の流れであるし、これをすることで不要な講義がないか、不足な箇所はないかが明らかにされ、学部・学科・コースでのカリキュラムのあり方が議論されるのであれば、大いにやればいいとおもう。しかし、学部・学科・コースの再編みたいな話になると、どこか上の方でお偉いさんがゴソゴソと政治力を使ってやっておられる。その際は、理念的なことではなくて、要するに人件費を抑えるために教員は○人まで、という条件を満たす再編成のことで、大学のGPなんか関係ないわけです。その程度の仕事なら学生と遊んでいたい。

つまり、やるとなったら結構大事なのです。本気なら、それ用のプロジェクトチームを作って、その分補償をしないと。私企業では、社運を賭けるようなプロジェクトに参加させてるなら、達成の暁にはボーナスのひとつも出すでしょうよ。時間外労働が増えるのだから。

裁量労働制には出勤・退社・早退・遅刻の時間的縛りがない分、色々な役職を兼務しても給料に反映されない。であれば、正解は、なるべく出勤せず、仕事しないに限るってなる。これがそうならないで保たれているのは、唯一、科学者・研究者としての生き様がそこにあるからで、その理想、志、あるいは長期間不遇の時代に押し込めた代償として持たせてやった忠誠心を大学は食いつぶしているわけです。

万国の大学人よ、立ち上がれ!

・・・なんてね。

ともかく、FDのこと、というか大学教育のあり方を、もっとみんな真剣に考えるべきだと思うんだよなぁ。

さて以下は愚痴の部分。無駄なので読まなくてもいいです。

まず、配付資料。教養教育、共通教育などの類似した言葉が多いのにその定義がない。学部、学科、コース、教室、など学部によって内部の構成が違うのにそれぞれの説明がない。会議のしょっぱな、こんな些細なことでつまづいた。私は赴任して四年になるが、まだわからないこともあるわけですよ。だいたいわかっていたとしても、共通教育の中の教養教育におけるGP、とかいわれてもスッと構造化できないわい。

シラバスの一般目標と到達目標とか、評価のポイントとして五次元以上あげられているのもよくわからない!構造化するという発想がきっとまだ無いのだ。

まぁ多少これはこちらの無知に非がある話だが、メンバーの熟知度の違いを想定してないというのはひとつの問題でしょう。今年度からFD担当になった人もいるわけですから。

で、カリキュラムマップ。なんとかA3に納めました!と胸を張って言うのだけど、そこはむしろ問題じゃない。なぜなら、A3になってわかりにくくなっているから。A2でもB0でも、わかりやすくなることが大事だろう。対応する箇所は同じ色にするとか、上下階層は濃淡で表すとか。俺でもその程度、イメージできるんですぞ。図を見てパッとわからないと言うことは、図にする情報が多すぎるか足りないか。図を書き直すことが先決で、無理にサイズを小さくして「何とかこのポイントなら見えますでしょう」って言うてるばあいか。上にも書いたとおり、参加者のモチベーションが無いときに、取りかかりのハードルの高さは失敗だねー。

次に、説明する人の説明の仕方。プリントアウトされた資料、A3の資料をA4と言い間違え続けるのは許してやるが(最初はとまどって資料を探した)、大教室で、前の方で書画カメラも使わずに、プリントを指さして「ここをこう・・・」と説明するのはやめてよ。わかりませんてばよ。声が大きく、時計を見ながら会議を進めるのはいいが、みんなついてきてないですよ。

二番目に説明に来た人は、逆に声が小さく、ボソボソと何を言っているかわからない。同様に、資料の提示方法もヘタで、この人達に仮にもFDと名の付く研修会をやられているかと思うとがっかりする。二言目には「システムではコレコレができます」というだけで、それ以上の回答が知りたかったら直接メールせよと言う。やれやれ。人を見て話する、って基本じゃないのか。

おそらく、センターはマンパワー不足の中、やる気のない大学スタッフを相手に、「文句を言わさずに、しかし確実にやらせる」という作業をするわけです。大変だろうな。お察しします。で、やろうとしているゴールは悪いもんじゃないと思うんだけど、そこに連れて行くための技術が伴ってないな。

結局やるのは人間なんですよ、という心理学者的コメントで終わり。