電子書籍の衝撃 (ディスカヴァー携書)を読んだ。
誰かがリツィートした佐々木俊尚さんのツィートが面白いと思ってフォローし始め、この本を出されたことを知ったので、買いたくて買って読んだ。まさにこの本で紹介しているような読み方・買い方だった。
この本は、書籍の流通について、過去(最古の言及は江戸時代)から未来まで論じており、非常に読みやすい。
色々考えさせられることが多かった。キンドルとiPad、どちらが日本のスタンダードになるのかはわからないが、消費者としては早くツマラナイ企業間競争は終わりにして頂いて、簡単に電子書籍が手に入る環境が安定して提供されて欲しい。
日本では、古い書籍を守ろうとする保守派(年寄りが多かろう)と、日本独自のスタイルを産もうとする官僚(愛国的で優秀な官僚、利権目的で大衆を顧みない官僚、どちらでも)のおかげで、なかなかスムースには行かないのだろうけど、ホントに早くして欲しい。
それでなくても、日本語は2バイト文字=フォントの問題があってなかなかすぐに飛びつけないのに。
いきなり余談だが、本の中で、Amazonのセルフパブリッシングの例があって、プレーンテキストで書いたらAmazonが版組してくれる、ってあったけど、これってTeXは絡んでこないのか。TeXはフリーの版組ソフトだから、個人でデザインできるというメリットがある。AppleでもAmazonでもいいから、TeX対応の電子書籍をしてくれたら、俺もすぐに本を書くぞ(笑)
さて読んでいて考えさせられたのは、これからの研究者のあり方である。
この本では、音楽業界の電子化とその栄枯盛衰を追いかける形で、出版業界にもそれが来るぞという話。何事にも先達はあらまほしきこと哉で、いいところを話題にしたと思う。
類似しているのは、研究者の研究の仕方でもある。論文は既に電子化されているものが多い。学会が出版元とは言わないが、それなりにまとめて情報を提供し、査読者という編集作業があって、というあたりは似ている。出版部数(投稿本数)が多くなって、査読の手間が増えて時間がかかるようになり、それにイライラする若手研究者が多いのも構造的問題だ。この辺が、電子書籍の浸透によって、新しい論文発表ルートができるかも、いやできたら面白い、なんて思ったり。
その時に気づくのは、昨日のエントリーとリンクするのだが、結局研究者は中二病なのだということ。言い換えると、自分の中に理想の世界を作って、自分の中での一番を求めるために、常に自分で自分を叩き続ける変な生き物だと言うこと。研究者同士は、情報や技術の面で、自分に近くて関心が近くなる研究者仲間との間で、互いが互いの専門性を必要としながら、コラボレーションによって作品を作りつつ、内心では「それでも俺が一番面白い着眼点を持っている」とか考えている。そうでなければならない。
研究者は、営利目的はないし、徹底的に真偽のゲームプレイヤーだから(少なくともそうありたいと考えている)、出版業界や市場一般とは合わない点も多い。自分の中だけの価値観だと言っても、自分の価値観が自分でわかるのは他者との関わりの中だけである、というのもわかっている(研究はコミュニケーションツールだ、と言い張る後輩もいる。)。だから時間がかかって不合理な所もある査読システムが無駄であるとは言わない。が、自由に妄想をまき散らして活動する、って自由もあっていいじゃないかと考えるわけです。今の大学文化で言うと、紀要論文の価値をもう一度見直す時期が来て欲しい。あれをブログのように気楽に、オープンに、フリーにできないものかなぁ。
最後に、この本を読んで一番悲しかったのは、今も時代がおおきく動いていて、圧倒的に揺れている事実。そして、もう結局は、中高年の、守るべき財産・価値観・やり方を「ここまでこれで行けたのだから、若造は黙ってろ」と押しつけるタイプの人とは永遠に分かり合えないんだな、という実感。その世代は弊害になるから、切り捨てなければならないのだな、と覚悟せざるを得なかったこと。その世代の人たちだって、ちゃんと生きて、ちゃんと時代に適応しただけなんです。だから、新しい時代の波が来たからって、全部そちらに乗り換えずに、ちょっとずつ徐々に間を取ってやって行けばよいと思ってたけど、どうやらそれも許されない悲しい時代が来たのだな、という感じ。
もちろん私が上の世代の人たちを裁く権利や能力を持っているわけではないけど、そういった覚悟をしなければならないという感じかな。
そしてそれはいつか、自分にも返ってくる話なのだな。
いつまで流行ものを追っかけて、わかったフリをしていられるだろうかと思うと、不安にもなる。