わからない、という言葉は「分からない」「解らない」「判らない」の三種類ある。
- 分からないは、要素に分解できないこと。問題の構造がつかめないこと。
- 解らないとは、問題の機能的側面、意味的側面がつかめないこと。
- 判らないとは、問題の所在、機能、構造がわかったうえで、真偽や美醜など別の判断次元に対応させられないこと。
ちなみに学生が「わからない」とレポートに書いているときは、上のどのわからないなのかすら解っていないことである(by藤澤先生)
難しい、というときは少なくとも上の三つに対応し、構造が複雑である、意味が多義的である、どの基準で判断すべきか決断しかねる、が含まれる。ただし、学生が「心理学ってデータを扱うって聞いて、難しいと思いました」というときの意味は、考えるのが嫌である、理解したくないという感情や意図ある場合がある。これは教育上指導できないところなので、困る。
先日友人がつぶやいた(@room_composite)、『「っぽい」って既視感だよね』は非常に意義深い発言だと思う。専門家であれば誰しも、用語の厳密な使用を心がけるべきで、このように言い換えることで理解がぐっと進む場合が多い。色々考えていきたい。
真っ先に思いついたのは、「教育的配慮」というやつだ。あれの正体は何だろうか。「教育は放棄するが責任は負う」という意味か。はて?
実は隠していることがある。それは「悟る(わかる)」というわかり方だ。英語はunderstandingで、上の「わかる」話はいずれもreason、rationalなわかりかたなのだ。
本質をとらえる。さっと全体性でもってわかる。スタンドのアンダーですよ?って、そんなものあるのか。
言語化する、細分化することで本質に迫ろうとする考えは、一つのやり方ではあるが全てではないだろう。
たとえば最近の大学教育はモットーや教育プログラムを明文化する方向に進んでいる。明文化、すなわち言語化、細分化である(それが十分に出来ているかどうかは別問題として)。専門教育という現場では、そのやり方は正しいと思う。その考えに沿って、今同僚とルーブリックを作っている。ゼミ運営の最低条件だとおもうからだ。
しかし、これを超えた教育とか人間のつきあいがある、ということを忘れてはならないと、いつも頭の片隅で考えている。それがいいことかどうかは判らない。きっと俺が好きなのはそれなのだ、ということは悟るのだ。