質的研究について考える

このところこればっかりなんですが。

「卒論というタイムスケジュールでは、質的研究にせざるを得ない」という意見について考えている。

この話は、「質的研究って・・・あるの?」という問いに対する答えである。
おそらくは、私が量的研究に傾倒しているので、多少遠慮してこう言ってくれたのだと思う。すなわち、質的研究の延長線上に量的研究があるのは認めるが、まだその段階に達していない分野では質的研究から始めなければならないし、一年という期限で研究をする上では質的段階で止まってしまうことも仕方ないだろう、という意見なんだな。

私の問いは、もう少し形而上学的で(なにせ酔っぱらっておりましたから。酔っぱらってなくても考えていることではあるが)、そもそもそういう研究対象ってあり得るのだろうか、というところなんだけど、まぁ彼女の言わんとすることもわかる。そういう意味でなら、私の反論は、あるのならば質的研究でなければならないものを対象にしてやればいい、量的な研究ができないから質的な研究をやるというのはだめだ、ということである。

質的研究の延長線上に量的研究がある(質的研究→量的研究)のであれば、それをタイムスケジュールの問題にするのはいかがなものだろうか。つまり、先のエントリにも関連するが、まだその段階にない、というのであれば着想レベルなので、論文にはできないだろう。

さらに、延長線上にあるのかどうかわからない(質的研究→質的研究)ものの場合。これはとりあえずやる、とりあえずできたところまで報告する、という形になるだろうが、上と同じでその提示するものの「共通性と独自性」、「特殊性と一般性」のバランスの問題になる。たとえば狐憑きの研究をしよう、と考えたとする。特殊な事例で、事例数も少ない。ましてや狐憑き尺度などで一般的な態度を測定することもできない。こういうときはもちろん質的研究になるのだろう。もちろんその研究の資料が、伝聞だろうが伝承だろうが、インタビューだろうが何だろうがかまわない。しかしその場合は、狐憑きの特殊さ、を論じることになるだろう。日本各地で見られることなのですよ(共通性・一般性)、だけどこの地方では白狐、この地方ではつがいで現れる、この地方では・・・という特色(独自性・特殊性)がありますよ、と。

これを、○○の地方にはこういう言い伝えがあります、で終わるのであれば、研究のレベルに達していないだろう。ある問題を見つけた、あるいはある問題にアプローチした、というだけではお話にならないのである。

なぜなら、独自性・特殊性のスコープはとても小さくすることが可能だから。そして、どこまでも対象を小さくしていくと、その中に必ず独自なものはできてしまうから。

たとえば、ある夫婦、ある家族のなかだけで通用するルール(たとえば我が家だと、食事は作る方と後片付けをする方に二分され、一方が作れば他方が後片付けをする、という決まりがある)を取り上げて、「このルールをやっている夫婦にインタビューしてみた。いろいろな話が聞けた。インタビューから、この夫婦の概念モデルを作ってみた」と言われても、はぁそれで?となってしまうだろう。どこにでもそういうものはあるのだから。
エスノメソドロジー的な社会学なんかにも共通して言えることだけど、その問題の特殊性をいかに一般性との対比で語るか、というところがミソなのである。
狐憑きの例を挙げたように、この夫婦のルールがいかに特殊であるか、ということを言うには、多くの他の家族と共通点があるか、その上で違いがあるか、というところがポイントになる。

ことほど左様に、質的研究の場合は、まずそれが妥当な問題提起であるか(研究のスコープは適当か)を熟慮してから始めなければならない。そりゃ特殊な事例を見たら特殊な話が聞けるよね、と言われてしまわないために。一般事例を十分踏まえた上で、特殊事例に言及できるようなバックボーンが必要である。

結局のところ、質的な研究というのはおもしろいかどうかの判断は、その人がおもしろいと思っているかどうかである。しかし、周りの人にいかにそのおもしろさを伝えるか、にポイントがあって、面白いと思わせなければ(普遍性がなければ)価値がない。
当然ながら、量的な研究もそうであって、思考の筋道が整っているという利点を抜きにして、いかに面白いか、あるいは筋が通ってるが故に導かれる理不尽な結果、これを導出しなければ価値がない。

量的な研究でも、原因と結果が直線的につながれるような研究は面白くない。
世にある心理尺度のほとんどを、私は信用しない。その中のプロセスにはっきりとした疑念があるから。その目的とする変数の、構成概念的妥当性に疑念があるから。
心理学の研究概念も、多くはそのスコープを間違えているような気がする。その部分を取り出して、果たして議論できるのか?というところが曖昧なままにされてやしないか。

事ここにいたって、振り出しに戻ってしまった。

要するにあれだ、スケジュールの問題で方法論を定めるのは間違い、ということだ。
だから、時間がないからKJ法やりますといった考えはナンセンスだ。単に研究というのを馬鹿にした発言だ。

あるいは、方法論から研究を定めるのは間違い、ということだ。
インタビューするから質的研究です、というのもまたナンセンスだ。なぜその方法をとったのか、が評価されないからだ。
M-GTAだからいい(方法な)んです、というのもナンセンスだ。方法論に研究のおもしろさを評価する力はないのだ。

あるいは、量的な研究でわかりやすい仮説は駄目だ、ということだ。
有意な差が見られなかったからだめでしたとか、有意な相関が見られたから良かったです、というのはナンセンスだ。むしろ仮説を否定する現実が面白く、単純な仮説は証明しなくてもわかっていることだからだ。

研究指導は方法論の指導でもあり、そこは一定の保証ができるが、結局は何を面白いと思うかであり、これは教育できる問題ではないのかもしれない。

追伸)ちなみに、本当の意味での「質的研究ってあるの?」については、言語の問題でもあり、ここでいう「研究」をなんと捉えるかという問題でもある。今回はそこには立ち入らない。また今度。

追記)そういえば、質的研究を説く人の中に、メトリシャンがいないのも引っかかる。メトリシャンが質的データを扱う技法を論じているのに、だ。質的データと量的データの対応のさせ方を、質的な研究者はなぜ考えない?