卒論発表会(13日書く)

朝は学生にお迎えに来てもらって(ちょうど良い時間の公的交通機関がなかったから)、卒論発表会に。

論文抄録集は一週間前に配られるのだが、学生はパワーポイントを使っての発表。
困ったことに、抄録集では意味不明な日本語でも、スライドだととてもわかりやすいとか、紙幅制限のある抄録集には収まらない図版がとてもわかりやすい、ということがあって、抄録集のあり方、発表のあり方について考え直さなければならない所もあるなぁ、という感じ。

今回の卒論、全体を評して言うなら、研究レベルになっていない2〜3件、今後の可能性がありそうなのが2件、あとは合格圏内で正規分布、という感じ。採点はかなり甘くつけられ、低めに申請しても無理矢理高得点をつけられるという始末。それは結局、誰のためなんだろうと思う。

私の判断基準は、卒論は勢いがあるかどうか、である。なぜそれを問題にしたのか、ということとやっていることが一致していれば、結果が面白くなくてもよい、という考え。できれば発表者には、その「原問題の所在」を伝えて欲しかった。それが研究のオリジナリティにもつながるから、と考えるからである。一方、逆の考え方をされる先生もいて、そういうのは飲み会でプライベートにやればいいのであって、公的な場でそういうことをいうもんじゃない、という。

これは、実は違うことのようであるが、全く賛成なのである。一番は、論文を読めばそれがわかるようになっていること。少なくとも、修論レベルではそうでなければならない。が、学部生にそれが求められるか、というと少しハードルが高いように思えるので、それを言ってもいいんだよ、と私は考えている。共通しているのは、「論文(および抄録集)にそれを書いては駄目だ」ということ。これは論文が学術論文である以上、当然のことである。その上で、私は「口頭発表の場でその情熱が見えれば良し」なのである。先の先生は、それも違う、というところで少し厳しい=プロフェッショナル、ということだろう。

ついでに言うと、今まで見てきた修論はほとんど全てに謝辞がついているが、あんなモンいらん。修論はもっとストイックに形式主義であるべきだと考えている。

博論は、情熱+形式+αなので、謝辞があっても良し。

あくまで私の基準であって、一貫したものでない可能性もあるが。

さて、二次会で卒論生に、例の質的研究の話をしてみたら、ある人が言うに「卒論というタイムスケジュールでは、質的研究にせざるを得ない」という意見が聞かれた。

なるほどそうかもしれん。しかしそうなのだろうか。いやしかし・・・。

考えがまとまってないので、このことについては今度しっかり論じてみたいと思います。