心理学の分析手法として、KJ法で、とかM-GTAで、と言われるとどうも違和感(より正確には嫌悪感)を覚えるのだが、それがなぜなのかを考えてみた。
心理学はデータをとる学問だ。データのソースが人の生理反応であるか、認知状態の評定であるか(評定行動?)、あるいは書き表した論文・書籍・逐語録のようなテキストであるかはともかく、それをデータとして見て、そこから自分の仮説を検証する。仮説を検証するのはなぜか、というと、これはやはり自然科学的アプローチに憧れているから、ということになろう。哲学や数学も仮説を検証するが、それはあくまでも論理的な世界においてであって、現実世界に基づく、あるいは現実世界に還元される仮説であれば、それが正しいことかどうかの検証が必要である。
データは、質的なものと量的なものに分かれるとされる。量的なものは、数量的なもの、数字に算術処理が施せるレベルのものであって、間隔尺度水準、比率尺度水準が量的なデータである。それに満たない、順序尺度水準、名義尺度水準は算術処理が施せないから質的データという。
テキストのようなデータは、そもそも数量レベルじゃないから、名義尺度水準の下にさらに「ごく質的なデータ」みたいなのがあるはずだ、というのは間違い。名義尺度水準は数字と対象の一対一対応が確保されている、というだけなので、ある逐語録全体に「1」という数字を割り振ることも可能。「1」とはサンプルAの5分による発言記録だ、というのがわかれば良いのである。
「1」という数字にAの意見が、意図が反映されていない、というのであれば、発言記録の一文ずつに数字を割り振るとか、一言一句に数字を割り振るとかすればよい。そんな細切れになった言葉では、文脈が反映されていないからだめだ、というのであれば、どの語・どの文が前後にどのようにつながっていたかに数字をつければよい。
いやいや、それでは文章の背後に隠れた、サンプルAの本当の気持ち、本当の心が示されえない、という反論は、語るに落ちるというヤツである。それは畢竟、データになっていない情報がある、ということだから、研究テーマが間違っていましたよ、あるいは研究じゃないですよといってるに等しい。
ここではなにも、データが心の全てである、ということを言っているのではない。むしろ逆で、データは心的状態の一部でしかないことを自覚しつつ、その一部の「表現形」をできるだけ理解し尽くす形でアプローチしなければならない、ということである。全部ではないが、データで言えることは全部言う、という心構えを言っている。
さて、KJ法という技法がある。これは川喜田二郎氏の考えた問題解決技法・発想法で、アイディアの粒を分類することで思考を整理し、新しい発想を得るためのものである。が、心理学においては、ちょいと違った用法に重点が置かれている。すなわち、テキストのような質的なデータをカードにまとめ、カードの類似・非類似を元に分類し、クラスターを得るというものである。カードに書かれているのは、一つ一つの発言や命題であり、分類は複数の(専門家、時には大学院生のような研究者の卵、時には学部生のような素人、による)評定者が行う。これによって、概念をまとめることができるというものである。心理学的に重視されるのは、複数の評定者が行う、という点であろうかとおもう。すなわち、複数の=客観的、評定者が=人間という「意味を解釈できる主体」がすることの安堵感である。つまり「数字とかコンピュータは苦手。気持ちが伝わらないから。でも客観性は大事って言われたので」、という人にはもってこいの手法なのだと思う。しかし、複数=客観的といってもたいがい数名という小サンプル、意味を解釈できる=無理解・誤解を含みきわめて不安定、という欠点は残る。
GTAとかM-GTAとかいう手法もある。これはGrounded Theory Approach、あるいは修正版GTA、と呼ばれるもので、この数年、心理学における質的データの分析で大流行しているものである。名前が表すのは、地に足がついた理論を形成するためのやり方、である。GTAをやるっていう人は、なぜかその手法を論文の中にこと細かく書きたがるので、いやでもだいたいの概略はわかってしまうのだが、要は質的なデータをとる、KJをしてクラスタリングをする、クラスタリングを元にデータを見直す、クラスタリングを修正する、これを繰り返して収束したら次のデータをとる、次のデータでも当てはまっていればOK、というやり方のようだ。抽象化と具体化をぐるぐる回るあたりが「地に足がついた」のところで、作業量は多いけどじっくりデータを見ることができて、意図をくみながら理論を構築できるところが好まれているようだ。穿った見方をすると、単純だが大量の作業を繰り返しているうちに、なんだか研究をした気になっていくとか、認知的不協和の解消のために出てきたものが理論じゃなきゃ困る、という背景があるように思う。これはしかし、プロセスの内部にKJを含んでいるので、KJの批判がそのまま当てはまるし、反復することで修正できる可能性があることは評価するが、ひとたび形成した枠組みでしか対象を捉えられなくなってしまう、という大きな弱点がある。たとえば二重盲検法のような、判定者自身を相対化・客体化できる技法が含まれていない。ここでやれることは、理論に向けたアプローチであって、せいぜい仮説の導出ぐらいである。
KH法という手法もある。関連性評定に基づく質的分析、というらしい(http://www.psystat.com/kasai/)。言ってみればこれは、KJ法+数量化III類+クラスター分析のパッケージングで、質と量を組み合わせているところに長所があるのだろう。個別の分析をセットにして新しい名前をつけているだけなので、オリジナルな分析方法ではない(手法そのものに学術的価値はない)が、初学者にわかりやすい命名をした、というのがいいのかな。いいんだろうな。別にこういう名前をつけられなくても、やる人はやってましたけどね(NW法)。
こうすると、違和感を覚える箇所が徐々に明らかになってきた。
一つは、客観性や一般性の確保を目標とする手法である!と強調するのに対して、実はそれほど客観的でも一般的でもないという事実。ただこれは、質的分析のぉぉぉ!と声高に言う人に対する反論である。すなわち、KJ法やGTA、M-GTAはあくまでも理論化を助ける手続きであって、客観的事実を提出するための(提出できる)技術ではないということ。本来これらの技術は、考えを整理し、新しい発想を生み、モデルの逆・裏・対偶を探すための発想法なのである。そういう意味では、研究にあたっての思考のマナーであり、本題に入る前に十分終わらせておくべきところである。それがいかに大量の作業であっても、準備運動は準備運動に過ぎず、せいぜい資料論文止まり。本来「問題」を書くところに自分の思考の文脈を筋道立てて記すためにやるべきことで、これが「方法」や「結果」のところにくるのは間違っている。
また一つは、手法の解説についての疑義である。たとえば因子分析をするときに、1.各項目の平均値と標準偏差を算出し、2.標準化された得点から、3.相関行列を算出し、4.相関行列の累乗に任意のベクトルをかけて、5.収束したところを第一固有値と定めて抽出し、6.固有値に基準化したベクトルをかけ、元の行列から引くことで残差行列を算出し、7.第二固有値を算出し、8.以下同様に全ての固有値を算出し、9.共通因子と思われるところで因子構造をさだめて因子負荷量を算出し・・・と論じている論文があろうか。当然、ない。これは因子分析モデルについての妥当性はモデル検証を専門とする学会(Psychometrika、行動計量学会等)で議論されているからで、心理学などの論文では技法よりも内容を問題にすべきだからである。
まとめると、「M-GTAを施した」という表現の気持ち悪さ(それはただのアプローチ法だろうに)、手続きと方法の混同(それはただのアルゴリズムだろうに)、が不愉快なのである。
論理的な反対意見は以上の通り。加えて、嫌味をいうと以下の通り。
すなわち量的な分析がいやだからKJ法で、という逃げの手法として用いてんじゃないの、と思うからである。
データをとる、と決めた時点で、それは既に尺度水準の上に乗っていると考えるべきだ。数量化III類だけにとどまらず、名義尺度水準を分析する多変量解析的手法はたくさんある。なぜデータをとるのかといえば、それが反証可能性を保証する科学になるからだ(ナイーブな科学論だとはわかっているが、一応そういうことだ)。だから、KJ法をアイディア発見のために使わず、資料として使うのであれば不十分だといえる。概念化できたのであれば、数量的にその特性を記述し、妥当性を検証することも可能だからだ。ただし、数量的計算が直接できないという意味で、逆に、計算方法は複雑になる(固有値分解と特異値解の違い、結果をどの空間に写像するかなどの判断等)。調査実験をする時間がないからKJで、というのは逆で、むしろ調査・実験を正しく行った方が、計算モデルとしては単純で済む。
量的な分析が好きな人は、なんでもそういう方向に持って行こうとするのだ、という批判もあるかもしれない。しかし、量的な分析をする人は、それで言えることと言えないことの限界が、痛いほどわかるものである。手法が客観的=誰がやっても同じである限り、数字が無味乾燥なものであるからこそあらゆる分析法を駆使しても、答えが出ないときというのはある。そのときに無理に答えを出さず、「意味なし」、「判断保留」、「データの限界」を宣告する責任がある。自分の理想と異なるものであっても、である。これが検証するということ、反証可能性があるということだからである。
量的な分析が嫌だから、というのは結局、反証可能性を閉じていることでもある。自分が見たいものを、見たとおりに表現したい、数学というよくわからないフィルターで見えなくなったら嫌だ、という考えに通じるからである。よくわからないのであれば、学べばいい。そのために先輩や教員を利用すればよいのである。見えなくなったら嫌だ、というのは見たいモノしか見たくないということであり、それは科学の道ではない。
だから私は、質的分析を、と声高に言うことに恥ずかしさを感じ、それをおずおずと言うことに嫌悪感を覚えるのだ。