修士論文口頭試問

14時スタート、20時終わり(予定)。実際には少しオーバーしましたけど。

6時間という長丁場ではあったが、久しぶりに思考の格闘技をしたという感じ。

発表中、ずっと考えていたのは「内包intensionと外延extension」について。狭義では、外的妥当性の問題でもあるんだけど、もうちょっと広い意味で。

思想の中の数学的構造 (ちくま学芸文庫)の中にある話なんだけど、自然科学が対象とする数値としてこの二種類があると。
外延量は、長さ、重さ、時間のように対象の特性を直接記述する数値で、加算的に考えることができる。例えば5リットルの水に10リットルの水を足したら、15リットルになる、というように。
内包量は、密度、濃度のように、一種類以上の外延量を複数組み合わせて算出される指標で、加算的に考えることはできない。濃度5%の食塩水と10%の食塩水を足しても15%にはならない、というように。
内包と外延、というのは当然デカルト二元論に繋がる話なんだけど、詳細は本を読んでいただくとして、文中に「心理学のような学問は、内包(=心のようなもの)を外延で記述できないから困っちゃうんだよなぁ。」という話がある。文意としては、だから心理学は駄目だ、じゃなくて、だから駄目だというのは早急な意見なんだけど、という流れですが。あと、「科学とは、内包を外延で記述していく仕事だ」という表現も。然り。

本当の自分とか、自分らしさとか、生き生きとした感じとか、アンビバレントな感情とか、集団の盛り上がりとか、リーダーシップとか。
例えば1950年頃までの集団力学は、外延量で記述できるとナイーブに信じていて、やるだけやりまくって。その後、外延量って結局個々人のものじゃない、という個人主義的潮流にのまれて、完全にその流れに乗ってしまうか、あきらめて内包を直接叙述することを考えたりしている。
一方、臨床心理学というか、質的=内包的なものをそもそも指向している学問は、グラウンデッドセオリー(笑)とか、テキストマイニング(笑)とか、フォーカシングでフェルトセンスとか(笑)*1で、これも科学になり得るんだ、ってなんか逆の勢いがついている感じ。

樹教授が言うように(もやしもん(7) (イブニングKC))、「すべてを知る必要はないし、明かす必要もないヨ」という感覚、あるいはもっと安っぽい解釈でいうところの、ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」という宣言について、我々はもう少し真摯であっていいじゃないかと思う。

身体感覚を言語化することに、矛盾はないのか?
ルーシーは本当に成功するのか?(参考:アンドロイドの脳 人工知能ロボット”ルーシー”を誕生させるまでの簡単な20のステップ)。

メトリシャンとしては、記述されたものはすべて研究の対象になりうるのであって、名義尺度以前の内包は手の届かない永遠のイデアなのである。

ところで、内包だけで記述すると、非情に面白いゲームが成立する。あるテクニカルタームを、別のそれっぽい言葉に置き換えてみると良い。完全に文意が通じるのだ。面白かった。

さて、長丁場を終えて教員からのコメント。年齢順にコメントが出たが、新任の同僚Oはここにきて
「昨年10月に赴任しました。誰だろうと思ってる方もいるかと思いますが・・・」というつかみで大爆笑をとり、「みんなで真実に近づいていきましょう!」という演説で拍手喝采を受けた。すごい人だ(笑)

とまれ、笑いと拍手で終わることができて、よい会だったと思います。

*1:ここで笑いのマークを入れたのは、その技法の使い方に対してであって、技法の善し悪しそのものを嗤ったわけではない。