「現象学は思考の原理である (ちくま新書)」を読んだ。カントもフッサールも、原本を読まずにこの手の解説書でわかった気になるのはどうか、と思いつつ、まぁ簡単に要約してくれてあるので、よくわかったと言おう。
カントに始まる(?)客体の捉え方をぐっと進めたのが現象学、というのはよくわかる。確かにその通りだ。
科学に真実性は必要なく、普遍性があればよいというのも説得的である。哲学は社会原理を立て直す、という見出しには少なからず共感する。
哲学=現代思想が言語分析哲学系と現象学系に分かれたという道筋も、やはり解説書のありがたさよ、非常に理解が進んだように思われるのである。
しかし中盤、身体論、欲望論のあたり、どうにも言葉で遊んでいるような感がぬぐえない。タイトルにしてもそうだ。著者は「思考の原理」という言葉に酔っているのか、読者との温度差ができてしまうようだ。
現象学的な考え(少なくともこの書で案内されているような)を全て踏まえて、「で、どうするの」というところに、ペギオとかソシオンとかは居る。
今年から、一般教養の心理学を担当し、ソシオンを教えている。教えながら、徐々にソシオンの奥深さ、浅さ、をかみしめているところである。
少なくとも、現象学は生半可な理解をすると、下らぬ戯言を幾重にも重ねるだけの「堕した科学」が量産されるだけである。そういう意味で、注意して扱わなければならない学問だ、ということだけはよくわかった。
フィールドワークやエスノメソドロジー、臨床心理学や社会心理学と同じ危うさをはらんでいる。
しかし、その根本にあるのは、確かにものを考える上での最低ライン。その上でどうしようか、というところが本当の問題。
フィールドワークやエスノメソドロジー、臨床心理学や社会心理学と同じところに行きつくし、生命論やソシオン理論はそこからスタートしていく。