MorenoのWho shall survive?の原稿をなくしたようだ。あるべきところにあったのは、数年前のゴミでした。
かろうじて翻訳したものが残っていた。卒論を書き終わった後にこの翻訳作業をしていたが、途中でパソコンがクラッシュして全てのデータが吹っ飛び、卒論や翻訳のデータの一部しか回収できなかったことを覚えている。電子の藻くずになるって怖いな、と思った事件でした。
今でも自信はないが、当時はもっと英語力は弱かったと思う。誤訳してないかと心配になって原稿を探していたんだけど、まぁ前後の文意が通っているから、あるをないと訳している、というような大きな間違いはないでしょう。
問題となっている箇所を引用します。Book6誰が生き残るべきか?の「宇宙の人口不足」というパラグラフです。
マルサスの意見は人間の世界は人口過多だというものだった─地球の持つ資源は常に増え続ける人口を養うには十分なものではないのだ。地球の資源を向こう見ずに使っていると、貧困や病気、死に追いやられることになる。
一方これに反して、私の仮説は宇宙は人口「不足」であるというものだ。誰が生き残るのか?という問への答えは、皆が生き残るべきだ、というものだ。生き残れという最高位の命令は、まず第一に重要なものであり、生き残ることの意味は、2番目に大事なことに過ぎない。
マルサスは生き残りの意味を扱っており、自暴自棄な結論にたどり着いてしまった。私は命ある「有機体」とその生き残りを見つめている
(中略)
生命がわれわれが今あるような形、もしくはあるべき形へと近づいてくることに対して、そして生命がなくなってしまうことに対して、われわれは等しく寛大であるべきなのかもしれない。われわれの理想の標準レベルは、できる限り多くの人々を産み、そして彼らをできるだけ長生きさせることであるべきだ。しかしもし地球の資源と科学に対する才知が全ての生きている人間を養うことができないものであるならば、われわれは人間らしさにおいて考えられるもう一つの答えとは何か、という問いに真面目に向かい合うべきだろう。少なくとも原則においては、まるでそれまで気づかれなかったかのような至上命令として、われわれの同意を持って出産のコントロールをするという、もう一つの答えがあるのである。全てのものに生命を与え、彼らとわれわれが持つべきもの全てを「分かち合う」ようにしよう。全てのお腹の中にいる生まれることを許された人間のために、存在している人間の生命の長さをもっと縮めるようにしよう。際限ない誕生の危機性という感覚においては、周期的な出産コントロールに対するカソリック教徒の意見でさえも非倫理的であり、他の全てのものから来る干渉とその本質はまったく違わない。出産コントロールと予期的な概念による人口過多に対抗するものの代わりとしては、われわれは「長生きを妨げる」ことによってうまく違反することしかできないだろう。私は西洋自由主義において、そして20世紀半ばにおいてこれらの方向性が明記されたとき、長生きの妨げより非大衆的な勧告を想像することができない。最大限まで生命を長らえさせることは、老人の科学の意識的な目標になっているし、全ての良き人類が夢見た科学は、彼らの宗教によって約束された子孫にたいして、真の不滅性の代わりになるものを与えてくれるものであるという倫理的なコンセンサスによって支持されている。しかし、もし私がア・ラ・スゥィフトの心を持っていたら、私はわれわれのものとは逆に、秩序が保たれた世界をたやすく想像できるだろう。そしてそこでは、われわれの文化の中で出産コントロールが自然なものになってきたのと同様に、人口過多対策の宗教上の技術としての30歳か35歳以上の人間を、抹殺する事が倫理的に許されているのだ。その社会では、生命への愛は最終的なものになってしまっているだろう。「まだ産まれてない者のために場所を空けろ。新生児のため、全ての者のために場所を空けろ。新しい子供が産まれるといつでも、その子への場所を確保するために、老人や老婆を亡き者にせよ」