一分間でわかる

「一分間でわかる深イイ話」という番組が始まりましたな。
あの話のミソは、一分間というところにある。

本当に大事なのは、一分間しかない話から、どれほど重要な情報を取り出すことができるか。
あるいは、informationに対するexformationの問題。
「圧縮に際して、捨てた物の大きさが情報量」なのです。(「ユーザーイリュージョン」)

この番組が始まったのをみて、あるいは「あらすじでわかる名作」みたいなテレビ番組が始まったり、「この○○がすごい!」という本の案内本が出たりするのを見ると、今の社会ってのはどんどん加速していってるなぁと思うし、そのことに対して危惧するのです。

俺は昔から、自分の人生を因子分析のように考えて、エッセンスは何か、要するにどういうコトか、どうすれば「一を聞いて十を知る」ことができるか、ということばかり求めてきた。因子分析にはまったのも、こういう思想的嗜好性があったんだろうな、とよく思う。

で、三十路を迎えた頃になってやっと、そればっかりが大事ではないな、と思えるようになってきた。
適度に複雑であるとか、適度に手間がかかるとか、即効性はないけど手続き的にわざと面倒にするとかいったことの価値を認めるようになってきたのである。

例えば今日の大学入試試験監督にしてもそうだ。あんなもん、手間がかかることばっかりである。一回の試験をする度に、例えば10人しか受験生がいない試験会場に20部問題を持って行くとか、解答用紙を10枚数えるだけなのに、複数人で確認するとか、確認している姿を横で見ているとかw
「そんなの効率的じゃないから、もうさっさとやってしまえばいいじゃない」と思いがちなんだけど、わかっていて敢えてそういうことをする大事さ。

そういうのが、やっとわかってきた。

テレビで一分間のいい話を聞くというのは、エッセンスだけを抽出することである。そのプロセスとか、面倒な道筋をいちいち味わったりしないということである。ではその、面倒な道筋は無駄なのか?いや、そうではなくて、回り道することも重要だし、それらをふまえてこその味わいがあるんじゃないか。

ロシア文学なんか、回りくどさの固まりだ。最近好きなんですよ(笑)

社会が加速して、エッセンスだけわかればいいやってコトになったら、味わいの大部分が失われるような気がしてならない。無駄なこと、回りくどいことを全部やりながら歩みを進めるのが大事。

そういう思想を中心においた社会工学を作りたいもんだ*1

もっとも、この考えに至ったからといって、だからおまえの(以前の)短絡的な考えは駄目だと言ったんだ、という批判は当たりませんよ。

極端に短絡的な思考パターンというのをある程度やり続けたからこそ(青春のほとんどはそうだった)、今のこの考え方に至ったのであって、そういう意味では必要なルートだったのだ。
少なくとも私にとっては。もちろん、未だに嗜好の半分以上は、因子分析的である。

それをふまえて、ちゃんと前に進もうと思う。

*1:そういう意味もあって、私は参議院を無くせという意見には反対です。あれはわざと面倒な機関として残すべきものだ。