今回は友人Jの過去の著作物から。
シェリー:「あぁ、生命とは一体何なのか!」
デカルト:「生命なんてのは、単なる“機械”さ」
ナウシカ:「違う!いのちは闇の中の瞬く光だ!!」
ミンスキー:「“違う”って、君は“機械みたいな感じ”というのがどんな感じなのか、どうして分かるんだい?」
ケストラー:「しかし、還元主義では“生命”の謎は解けないだろう。」
フロイト:「・・・私自身は、生命力は“リビドー”そのものと考えているのだが。」
シュレディンガー:「その仮説には“反証可能性”がないではないか。“生きる”とはエントロピーの法則に反することをいうのさ。」
E.ヴェダー:「“生きる”ために“死ぬ”者もいる。」
マツラーナ:「確かにね。“生命”とは、ある実体ではなく、その構成素を算出する“プロセス”のネットワーキングそのものじゃないのかな。」
ゴーギャン:「・・・我々は何処から来て、我々は何者で、我々は何処へ行くのか・・・!!」生まれながらにして目の見えない子猫は、何のために「生まれ」何のために「死んで」ゆくのだろう。私たちはよく、私たちには生きる「義務」があるのだというが、この子猫の生きる「権利」はどうなったのだろうか。彼の賜った「生」は彼自身にとって、明らかに「意味」がないではないか!!「生命」とは本当に尊いものなのだろうか?というよりは、そもそも生命とは「倫理」の及ばざるところのものではないのだろうか。
問題提起:「生命」とは何か。=「生命」という言葉で指示されるものは何か。
- 比べてみよう。 石ころと人間/死んだ人と生きている人/機械と人間
- コンピュータをいくら分解しても、コンピュータの本質(プログラム)は見えてこない。人間をいくら分解しても、人間の本質の半分も見えてこないだろう。DNAに生命の答えはない。(物理学的還元主義の限界)
- 大切なのは、「要素」ではなく要素間の「関係(性)」である。人工ポンプでも人間は生きていける。(ネットワーク論・システム論)
- 私たちは「生命」を宿している限り「風化」しない。「生きる」とは熱力学第二法則(エントロピーの法則)に逆らうことでもある。(熱力学的世界観)
- 生命は「対象」ではなく、「現象」である。したがって、単位(1つ、2つ・・・、1g、2g・・・)はないし、「倫理」は及ばない。
- 「生命」と「情報」との関係(理解しようと努力中)
冒頭のは、結構狂っている名文だと思う。