ドゥルーズは言う。「なぜ、人は真実を求めるのか」と。なぜ全てのものを統一的に説明する法則が必要とされるのか。なぜ秩序だったものを望み、無秩序なものを嫌うのか。これは真理を求める哲学や自然科学、社会が、「そうすべきだ」という理由で無視してきた問いである。その通りだ。無秩序なものに秩序を与え、混沌から法則を導き出すことによって、文明は造られ人は繁栄し続けてきたし、それはこれからも変わることはないし、変わったら嫌だ。社会はこの真実を求めるという人びとの信念によって成長していくだろう。そう、「社会」は。
「社会」は私たち、とりわけ、学者や科学者の確固たるそして揺るぎない「真実の追究」によって支えられているのだ。まったく微笑ましいこの話は、社会の中にいる人たちにも拍手をもって、迎えられるだろう。私たちはこの「社会」のために努力するだろうし、その期待を裏切ることはないだろう。そう、「一部の人たちを除いて」は。
実はこの美談に水を差すような不届き者が存在するのだ。この哀れなる愚か者の話をわざわざするのは気が引けるが、紹介をする程度なら、話のネタになるというものだ。悪魔の信頼を背負いしこの裏切り者は、「社会からの抑圧」を受けているのだが、そうされて然るべき理由があるのだ。この目に余る穀潰しどもは混沌に光を与えし、我らが敬愛する学者先生方の、あろうことか、その顔に泥を塗るような真似をするのだ。彼らの取る行動と来たら、「社会の常識」から考えてみても、全く理解し難い。まったく一貫性がないのだ。ある一つの言葉に様々な意味を読み取ったり、てんでばらばらに言葉を並べたりするのだ。それはまるで精神分裂病者のようだ。何もないところに何かを見たり、とるに足らないものに並々ならぬ関心を寄せたり、意味不明の言葉を発したりする。そう、彼らはまるっきり「欲望」そのものだ。
ドゥルーズは言う。「真理を求めること、真実を導き出すこと、それらは敗北者お決まりのセリフだ」。なんたる暴言!科学者に対して(なんて)失礼な。確かに僧侶などに見られるような理想の生き方とは、真実を求めるために現実(俗世)から逃避すると言う、いわゆる禁欲主義である。それは、現実という観点から見ると敗北者であると言えるのかもしれない。また、フロイトが言ったように私たちは生まれたときは欲望そのものであるが、それが社会などの規制によってその欲望を抑えられたりする。自我とはそのような欲望の押さえ込みによって発達するものだと考えれば、私たちは敗北者だといえるだろう。ただ、私たち個人個人が敗北者だとしても世の中のみんながそうであるわけだし、ドゥルーズが言うように、「真実を求める科学」が禁欲主義的理想のように、社会に支配された人間、弱い人間が、現実の惨めさを打ち消そうとして編み出したと考えたとしても、そのことで実際社会が進歩しているのであるわけだからそれで良いのではないか。そう、「個人」は確かに敗北者だけれども、そのことが「社会」のためになっているのだ。
(続く)