なめらかなゼミ合宿とその敵

ゼミ合宿に行ってまいりました。今年の課題図書はこれ。

[amazonjs asin=”4326602473″ locale=”JP” title=”なめらかな社会とその敵”]

この本,課題図書として適切なのかどうか,判断に最後まで迷ったのだ。難易度としては軽めで,二年生もいるゼミだから,ちょうどいいと思うのだけど,学術理論的な話だけでもないし,実践的な話だけでもない,悪く言えば中途半端な本。

話のテーマは,Fiskeの言う尺度水準と社会文化の対応を,貨幣や投票のレベルで比率尺度水準に上げましょうという提案。それに外在主義的哲学や,オートポイエティックな社会観などを混ぜ込んだり,乗冪法による固有値分解で社会貢献度を評価するあたり,理論的な話のようである。しかし,その使い方が,読者を煙に巻くためだけに使っているようなんだよね。マルコフ過程とか固有値とかいう単語を「宝物見つけた」と言わんばかりに宣伝して,ビビらせようとしているだけちゃう?という印象。

一方で,実践するためのソフトやワークショップ報告なんかもあって,実務的にもできますよってな感じを見せている。よくわからなくても,動くということは説得力がなくはない。でも語尾は必ず「これからの情報技術が進めばきっと何とかなるさ」という言い方で,「そこは勢いじゃなくて実際どのようにやっていくかもっとまじめに考えろよ」と言いたくなる。

多分この著者のアイデアは革命のように,ある日突然,社会全体がこの新しい価値観を持つようになれば成功する。でも今の社会から徐々に(なめらかに)変わって行くのはおそらく無理だろう。人間とは著者が否定するほどなめらかでなくもないんですよ。

やるのなら,政党の得票数に応じて運用できる予算額を比例配分する,といった制度を地方自治体で導入する,という所ぐらいからじゃないとダメなんじゃないかなあ。

この本についてAmazonの書評をみても,「これだ!」と賛成している人もいれば,「何を今更」とか「もっと細部まで作り込めよ」みたいな反応に二分されるみたいです。大学の,ゼミのテーマとしてやるためには,もう少し本質的な議論をする本をテーマに選んだ方が良かったかなあ,と。少し反省。来年はもっとゴリゴリでいきますか?!

 

それはさておき。

宿につくやいなやプロジェクターをつけ発表を始めたのが15時前だったけど,18時頃までかかって,風呂や夕食(食後の花火は市レベルで禁止されているという)のあと22時から26時まで,発表会第2部。いつもながら,学生のタフネスには感心します。

こういう,おそらく学生にとっては普段の講義では聞かないような話の,自分ではまあ手を伸ばさないだろう本を課題図書にされて,担当章の発表をさせられるわけだけど,そのプレゼン技術に関して,すごいなあと思う。

私が学生の頃はレジメをきってそれを輪読するスタイルだったけど,今はパワポでスライド表示。そうすると,書き込める情報量が減るからか,挿絵やいわゆるネタ画像で要約するようになるわけです。分かったつもりになって逃げる,そういうイラストの使い方になってやしないかと少し気にはなるんだけど,確かに分かりやすい,うまいこというね!という切り口で表現するんだよな。

多分,昨今のジャパニメーション,日本のサブカルチャーは話の作り込みがどんどん細かくなって,哲学的になってる。だから,例えばシステム論とかでも,ガンダムやまどまぎで喩えられるんだよな。アニメなどで表現されて広まっているから,ソースは豊かなのです。そして学生も面白いものを切り取ってネタとして使う,という表現方法を心得ている。なんでも大喜利にしてしまうTwitter文化的表現が,見せる側も見る側もしっかり共有できているんだよな。ソースが逸品,ソースの使い回しも逸品。これを文化や教養といわずしてなんと言えばいいのか。

今時の学生さん(といえば自分が老けたように感じるが)のノリはよくわからないけど,一緒に時間を過ごしている(つきあってくれている)という事実はあるし,共通のテキストを持って(宿の一室で)議論するという訳の分からない活動こそ,なめらかな社会の実践だし,私のゼミは社会心理学のそういう実践でもあるわけです。楽しく続けて行けたらいいなあと思います。

 

翌日は呉に移動して,大和ミュージアムと鉄のクジラ館を見学。ドライブ中の「英語を使うと100円罰金」というゲームに散財しましたが,楽しく合宿ができました。

IMG_1956.JPG