今日のゼミでの話をまとめておく。
今日はとある尺度間の相関を見るような論文を読んでいたんだけど,少なくとも一方の尺度がそもそも何を測っているかわからない話であった。妥当性の低い尺度だった,と一言で切って落としてもいいんだけど,そもそもソレが尺度で測れていると思うのがどうかしてるぜ?という話になった。
心理尺度で測定するものは,多因子を仮定するとしても,対象としては一つの潜在変数である(だから尺度全体としてのアルファ係数が計算されるし,構成概念妥当性が大事という話になる)。その潜在変数は個人の中にあると仮定され,個人間で共通するものであるはずだ。例えば性格は,個人差はあるにせよ,五つの共通因子からなるとしているし,社会的態度も,その向きや大きさに個人差はあるにせよ,構造は共通しているのである。因子分析は,そういう個人間で共通した静的な構造を取り出す技術である。
さて,その個人間で共通しているという考え方が,実は重要だ。
例えば「東京タワー」とか「富士山」という対象にたいして個人が持つ印象や行動意図,情緒的反応は,個人差はもちろんあるにせよ,ある程度共通している(「どっしりしている」「好きだ」「登りたい」など)と想定するのは,ほとんど無理のない仮定であろう。そのパターンを取り出して尺度化(あなたの個人差はこの程度です,と数値化する)ことは可能である。これは,誰にとっても東京タワーや富士山ははっきりした対象だからであって,例えば誰も知らない地方のゆるキャラを対象に尺度化しても「わからないから何も思えない」となるから測定できないのだ。対象がはっきりと共通した認識をされること,が重要なのである。
そうした具体的対象物でなくても,心理尺度を作ることはできる。例えば社会的事件や出来事に対する態度や,政治や政党に対する態度だ。少年犯罪や地球温暖化に対する態度,というのは誰しもが「あぁあのことか」と思えるし,思っているものに違いがない(と考えられる程度に社会的共通理念がある)ので,その反応についての心理的モデルを作ることができる。政党も,中には色々な人がいるのだろうけど,その政党が持つ理念や方向性がある程度まとまっているので,評定してもらうことが可能だ。もし想定の程度が怪しいようであれば,教示の際に,「〜といった問題になることが多い少年犯罪ですが」といったプライミングをかますことで,同じ指示対象を想定させることが,ある程度はできるだろう。
こうした対象としてのまとまりがゆるくなる,あるいは個々人の中で想定されるものが違ってくると,測定はできずにcase-by-caseとしか言えなくなっていく。それでも例えば,「両親に対する態度」というのはある程度,共通した構造をもっていると想定できるかもしれない。だから,測定できるかもしれない。
私の父親,母親に対する私の態度と,あなたの父親,母親に対するあなたの態度は,違う人に対するものだから,例えば印象とかのレベルでは全然一致するものではないだろう。しかし,「何かあったら自分が面倒見ないといけない」とか「子どもの頃はとても優しく接してくれたと思う」,「自分の子どもには自分が親にしてもらったようなことをしてやろうと思う」という言葉で表現される心理的反応は,ある程度,社会文化的通念のようなものとして,共通した態度空間を想定しても良いかもしれない。
それではさらに個別事例に分かれやすい話であればどうだろう。例えば,恋人に対する態度である。個人的には,このレベルでの反応はギリギリ認められるかどうか,である(だって私はロマンチストだから)。恋仲になった二人がすること,思うこと,というのは結局のところ,誰だって同じようなことをしている・思っているのかもしれない。それでも,私が私の恋人に対して抱く感情や行動意図が,あなたがあなたの恋人に対して抱くそれと同じ構造を持っているかというと,ちょっと違うんじゃないかなあ,と思う。まあこの辺は,議論の多いところだろう。実際,Rubinのlove-liking尺度というのがあるわけだから,冷めて考えてみると恋愛的好意というのは個人間で共通する構造を持つのだ!と言うのであれば,まあ認めなくはないけどさ。
ただし,恋人に対する態度を測定する時に,調査対象者の中には交際相手がいない人,交際をしたことがない人というのはいる可能性があるわけで,「そういうときは,いるものと思って回答してください」といった教示をするのはやりすぎだろうと思うのである。交際をしたことがない人が,恋人とはきっとこういうものだろうと想定して回答したとして,その回答と実際に恋人がいてその人を思って回答するのとでは,対象が違うこと以上に実質的な違いもあるだろうと思うからだ(思いません?)。もちろん,実際にやってみて検証しろよ,という向きもあるかもしれないが,そこで差が出なかったとしても社会的望ましさによるものであり,社会通念としての「恋人」についての反応だから共通構造が出たと考えられる。
だから,家族のあり方や恋人のあり方が多様化していく中で,こうした調査は色々注意しなければならない。例えば「お父さんについてお答え下さい」といっても,同居していないお父さん,血の繋がっていないお父さん,三人目の育ての父,など様々なパターンが考えられて,中にはお父さんのことについては聞いて欲しくない,という人もいるかもしれない。そういう人に,「いわゆるお父さんであればなんでもいい」みたいな聞き方は失礼だし,そんなやり方でなんのデータが得られるというのだ。
さて。さらに問題になるのは,例えば「友人に対する態度」や「教師に対する態度」といった,対象の枠組みが明確でなく,かつ,対象の中での分散が大きいと思われる場合,である。「あなたは友人にたいして,なんでも相談できますか」というような項目があったとして,まず私の友人に対する私の態度と,あなたの友人に対するあなたの態度に共通するところはあるだろうか。さらに,その友人として,私やあなたは,誰を想定するのだろうか。
私の友人の中には,なんでも相談できる人もいれば,そうでない人もいる。この項目で思い描いた友人は「なんでも相談できる人」だったが,その次の項目でも同じ人を想定し続けて答え続けるだろうか?教示が「友人」だけであれば,様々に揺れ動くことの方があり得る話だろう。つまり,項目ごとに個人の中でも違う友人を想定していて,個人間でも当然違う友人が想定されているなかで,共通した心理構造がとりだせるだろうか?私は,これは無理だろうと思うのである。
いわんや測定の方法が,回顧を含むものであれば,なおさら悪い。すなわち「あなたは今までの友達になんでも相談できましたか」,というような聞き方は最悪である。思い出している時点で,かなり記憶の歪みが入り込んでいると考えられる。いわゆる貴様は今まで食ったパンの枚数を覚えているのか?問題である。そして「〜はあるか」と聞かれても,そうであったこともそうでなかったこともある,という場合,どう答えていいのかわからない。10年間の友人Aには相談したが,5年前の友人Bには相談する機会がついぞなかった,という場合に,私の友人一般は相談しやすい相手と私に認識されていたのだろうか?
こんな尺度(項目)からは,なんら実体的で有意義な情報は得られないだろう。得られることがあるとしたら,一般的に想定される<友人>に対する一般的な<態度>を持つであろうという想定に想定を重ねた架空の反応であって,隔靴掻痒,測りたいものが測れていないのである。そんなもんで測れていると思うなよ!
難しいことに,人間は断片的な情報から抽象化・概念化・対象化することが可能であるという認識メカニズムを持っているので,「今までの多くの様々な友人共通の<友人らしさ>」というのを抽出し,想定し,考えることができてしまう。できるのだが,そこに実際の友人は存在しないのである。
困ったことに,人間はそういう能力があるからか,五段階の目盛りのどこかに丸をつけろと言われると,なんとなく付けられてしまうのである。抽象概念としての<友人>について語ることは難しくても,その友人が「どちらかといえば仲良くしたいと思う」といった反応に丸を付けることは可能だ。なんなら,何も考えなくても丸をつけるだけならつけられるのだ。
さらに面倒なことに,複数の項目に対して付けられた段階的反応が山のように集まると,因子分析をすることでなんらかの傾向=因子を取り出すことができるのだ。この因子を取り出す手続きがルーチン化されてしまっているから,一定の基準で客観的に取り出せた,と思ってしまう。そうして取り出せたものの解釈をするときに,あら不思議,何か意味が通るようなまとまりをしているのである。なぜならそれは,自分が関係あるだろうという項目を並べたからであるし,回答者の方も文意になんとなく感じる共通性に従って反応しているだけだからだ。
本当に心の反応を測ろうとするのであれば,迂闊になんでも測れると思ってしまわないことが肝要である。あなたが測ろうと思っているものは,本当に思うようなものでしょうか?