科学的実在論を擁護してきました;YUEP2015

土曜日はYUEP読書会でした。

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最初の方はこれまでの理論の整理,最後の方に著者の主張が来るんだけど,擁護するという著者の主張が「公理系=モデル=実在(世界)」という形にすると,モデルはいろいろ否定されても公理系は傷つかないからいいよね,というところ。

この話は,自然科学系の科学論,という意味では非常にわかりやすいんだけど,我々は心理学という変な領域をやっているので,イマイチしっくりこない。というのも,心理学はそもそもの成り立ちがモデル論的(S-Rの間に心というブラックボックス・モデルを仮定する)なわけです。だからモデルが乱立するし,モデルとデータの適合の程度を統計学で担保してもらったりする。あるいは,モデルを拡張したり批判するために,新しい現象を見つけてきたりする。だから,わざわざ「これからはモデルを挟んで,世界と公理系の間を橋渡ししたら?」という主張が,我々にとっては当然の前提で・・・という感じになってしまうというところだろうか。

ただ面白いのは,心理学は公理系を作ろうとしないんだよね。しない,というかできない,というべきだろうか。

で,読書会メンバーで,例えば認知心理学における公理系(どの認知心理学者も認めている前提)って何があるだろう,といいながら次の二つを思いついた。

  1. 人間は情報処理機械である
  2. 人間の情報処理能力(速度、容量)には上限がある

これに加えて,@FUJIKIDaisuke 先生が「活性化拡散理論はもう公理といっていいんじゃないか」と言ってくれました。ネットワークモデルか,なるほど。

残念ながら,特に私のいてる社会心理学においては,そういう話が全く出てこない。社会とは何か,社会と個人の関係はどうあるべきかについて,共有している前提ってないのかしら。以前「数理社会心理学の基礎」というエントリを書いたんだけど,こういう話を共有できればなぁと思います。

ところで,先日stanをつかってモデリングをしていた時に,不思議な感覚を覚えた。モデルを書いてMCMCしていたんだけど,そのモデルの書き方がシミュレーション研究のパラメタ設定をしている感覚だったんだよね。となると今後,階層ベイズが一般的な手法になってきて,「データを生成するモデル」を考える必要が出てくるだろう。そしてそれを考えていくと,そのモデルを支えている世界観=公理系が必要になってくるはず。そのことになって,やっとソシオン理論が日の目をみるのかな,と思ったりしています。

相対主義が身体化されきった世代の人間にとって,どの研究・モデルも「お前がそう思うんならそうなんだろう,お前ん中ではな」という考え方はもう当たり前,それ以外がイメージできないほどに身に染み付いているわけです。そうすると,ますます論理実証主義的な考え方の世代とは会話がずれていくなあ,と思いますが,そういう時代が来ると「モデルとそれを支えている世界」の適応範囲の広さや説得力が重要になってくるはず。

教養を積まないとなぁ。

 

追伸 ちなみに,ツイッター上で一番面白かった反応はこれ。


さすがやで…